岳講演会

   [演 題] 北アルプス朝日岳と日本海親不知を繋ぐ

   [講  師] 栂海新道開設者   小野

 みなさん今晩は、ただ今紹介いただいた小野です。私は新潟県の一番西の端、富山県境の青海町、今は合併して糸魚川市になりましたが、そこに住んでおります。今日はそこから電車に乗り、富山で乗り換えて「しらさぎ」で来ました。
 私みたいなロートルの山がらすをこういう大都会に呼んでいただきまして、たいへん恐縮し、また光栄に思っております。そのきっかけですが、たまたま日本山岳会百周年記念事業の関東大会が新潟であったのです。その時、高木碕男大先輩が私の話を聞かれて、「その話を岐阜へ来てやってくれんか」ということになりました。高木先輩とは、今西先生がご健在の頃に黒姫山(青海黒姫山、1221.5m、1等三角点)に案内したご縁がございます。そういうご縁がないと、私がこういう都会に来て話をする機会は、まずないと思いますね。
 私は生まれも育ちも福島県のいわき市です。学校を出てから電気化学という会社に就職しましたが、その会社が青海にあったものですから、そこに住み着きました。青海はいろいろな自然との出会いがある所で、結局そこに骨を埋めることになってしまいました。私が栂海新道のエリアに入り込んでから半世紀になります。もう73歳になりましたけれども、今年も
6回ほど栂海新道を縦走しました。大体そのくらいは毎年入っていまして、まさに栂海新道とともに年をとったという感じです。
 今年はすごく暖かくて、今やっと北アルプスが白くなり始めてきました。10月半ばに降った雪はいったん溶けてしまい、焼山とか火打あたりは無くなってしまった。今週の日曜日に雨飾山へ行ったのですが、霜柱がちょっとあるくらいで雪は何も無い。10月半ばに行った栂海新道では、雪渓に雪がかなり残って万年雪になっていましたが、これは去年の雪です。去年は暮れから雪が多く、今年の夏は非常に暑い日が続いたのに雪が溶け残ってるところをみると、かなりの量降ったのだなと思います。

 栂海新道は日本列島の中でどういう位置づけになるかと言うと
北アルプス、いわゆる飛騨山脈が日本海で終わる最後のアンカーというか、日本海から始まるスターティングポイントというか、そこを受け持ってるのが栂海新道なのです。

 ウォルター・ウェストンを皆さんご存知だと思います。上高地で毎年ウェストン祭をやっていて有名ですが、日本一立派なウェストンの銅像が栂海新道の登り口にあるのです。そのわけは、明治27年7月19日にウェストンは白馬岳を登りに来ました。その前に、白馬は北アルプスの一番北の名峰といわれるが、この山はどこから繋がっているかということで日本海の終点のところを確認に来たのですね。
 百十何年前の話です。まだ信越線は直江津までしか無く、北陸線は通っていなかった。直江津から船で糸魚川まで来ると、そこに姫川という川がある。そこには橋がなくて、船橋つまり浮き橋だったのです。大井川みたいに、船の上に板を張って増水するとみんな引き上げて通れなくなる。そういう所を人力車で渡り、親不知まで行った。そして天下の険、親不知の絶壁に立って「あ、ここから日本のアルプスは始まる。スターティングポイントだ」と言ってるのだから偉いなと思います。ただ単に白馬を登ればいいのじゃなくて、周りのことにも非常に興味をもって調べていくところがちょっと違うのですね。
 そのことを記念して、青海町がウェストンの像を作ったのです。せっかく像を作って何もしないではもったいないからと、私が「海のウェストン祭」を始めて今年でもう18回です。我が家を開放して前夜祭をやるのですが、最近は全国版になって、4、50人が集まるのです。家に30人くらい泊まって、泊まりきれずに庭にテントを張っている人もいます。ウェストン祭のセレモニーが終わりますと、白鳥山に登って山開きをやり、そこで一杯飲んで帰る。いろいろな人が来て面白いですよ。来年は5月の第4土日です。土曜日に家で何かやって、日曜日に山開き。「おれも行ってみるか」という方はどなたでも来てください。
 それはともかく、ウェストンが「ここから日本アルプスは始まる」と言った天下の険の親不知です。今でこそトンネルで簡単に抜けれますが、昔は海岸線を通った交通の難所で、親のことも子供のこともかまっておられん、ということで親不知子不知という名前がついています。その海抜0mから上がって白馬に行き、そして後立山連峰から三俣蓮華岳で立山連峰と一緒になって槍、穂高連峰に行くことになりますね。
 そういう長丁場のルートを行く登山者も最近は多いのです。下ってくる人が大半ですが、0mから登って太平洋まで歩いていく人もいます。この前来た人と僕は初日付き合ったのですが、58日間かかって太平洋まで行きました。定年でリタイアして、何か記念になることをやりたいと思いついたのが日本海から太平洋まで歩こう、日本アルプスの横断縦走をしようということでした。去年はニュージランドの青年が上がってきました。「何でお前はここへ来た」と聞いたら「世界広しといえども0mからアルプスに繋がっているのはここしかない」。「どこまで行くの」と聞いたら「空に向かって上がっていく」という表現をしていました。おもしろい青年でした。
 登山の一つの形、アルプスと海を繋ぐという形が栂海新道の誕生によって出来上がったという面では、私も登山史に一つ足跡を残すことをしたかなという気持ちはあります。栂海新道を作ろうと思って45年くらい前に「さわがに山岳会」を創って、10年間で開通させ、それから35年間毎年手入れしているのですからね。
 最近、NHKで「小さな旅」とかが放送されています。僕はあそこのテレビではスター級の主役ですね。最後に日本海まで降りてきてバーッと海水に手を突っ込むのです。「裸になって泳ぎますか」と言ったら「それはやり過ぎですから、せいぜい顔を洗うぐらいにして下さい」と止めるものですから、その程度で済ませましたけれどね。
 そういうのを見ましたといって、最近登山者がものすごいのです。「アルプスの秘境」とかいったツァーも入ってくるのです。今は百名山なんかが有名になり過ぎて、この前雨飾山へ行ったら頂上に座るところがないのですよ。シーズン中はあんなところへ行くものじゃないですけれど、栂海新道も全国版になってきました。

 朝日小屋に泊まって栂海山荘に泊まって2泊3日で日本海へ行く。栂海山荘はだんだん登山者が増えて手狭になってきたので4回増築しました。あれは僕の別荘ですからね。途中の山や平の名前は全部僕がつけました。5万図にはまだ載っていませんが、僕がくたばった頃には載るだろうと思っています。
 けれど、栂海新道は冷やかしでは来れません。そこそこの体力のある人でないと無理です。今県警が非常に迷惑しているのですが、歩くのがいやになるとすぐ「ヘリコプター、迎えに来い」と呼ぶのです。この前も、朝日岳で雪が降って凍ったのに滑って捻挫したらしい。普通だったらエスケープして蓮華温泉に下ったらいいのに、延々と縦走してきてその日は栂海山荘に泊まった。次の日菊石山まで来たけれど、歩くのがいやになったからヘリで迎えに来いというのですね。5人のパーティでへばった2人だけをヘリに乗せて、3人はまだ元気があったから白鳥山まで行った。そこで、自分たちもいやになったからまた迎えに来いと呼んだ。どうかと思うのですけれど、最近こういう情けないトラブルが多いですね。

 栂海新道は非常に長いです。0mから3000m、白馬まで40q、栂海新道は27qです。白鳥山から下りてくると坂田峠があります。昔の北陸道で、海が荒れて親不知が通れない時の山回りのコースです。坂田峠の下には、上杉謙信の隠し金山といわれた昔の金山があった。そういうルートとクロスするのです。標高600mくらいかな。そこから延々と3時間くらいブナ林などを通って、日本海がそこに見えてるのになかなか着かない。なかなか着かないのをへとへとになってやっと着くと、相当達成感が味わえます。
 最近は、感極まって服を着たまま海に飛び込む人がいるのです。「帰りはどうするのだろう」と思って見ていると、上がってきて一生懸命絞っていますね。「着替え持っているからいいわ」といって泳いで帰る人もいます。いろいろな人から問い合わせがあると、僕は「海水パンツを持ってきて下さい。最後に感極まったら泳いで下さい」と言う。「良かったですね」と感謝されます。そういう余録が栂海新道にはあるのです。
 そういう感動を与えるというのはコースを設定するとき大事なことです。そこまで親切だったかどうかは別にして、結果としてそうなりました。簡単に行けないというところがいいのです。話を聞いていると最後に残ったのがこの栂海新道で、そこに行けたと満足している人も結構います。「ここだけが残っていて、これができて全部終わりました」とかいろいろ便りもいただきます。
 「サインしてくれ」というのもあります。「こんな爺さんにサインしてもらってもしょうがないでしょう」と言っても「いやいや栂海新道を作ったヌシに会えて光栄です。ぜひサインをして下さい」。女性ですがTシャツを着ているのです。「どこに書くのですか」と聞くと「胸に書いてください」。その人はでかくて谷間が広くてなかなか書けない。しわになってうまく書けないので「脱ぎませんか」と言ったら「脱いだら下着が見えるから」と、結局着たまま書かされました。そんな余録みたいな笑い話もいっぱいありますね。

栂海新道の地質について

 日本山岳会はアカデミックなところがあるので、前段として栂海新道の地質について話していきます。といっても、私は地質学者でも何でもなく、しがない鉱山屋でございまして、専門は岩石発破です。ダイナマイトを使って山を崩す自然破壊の元凶みたいなことをやっていました。岩石発破はダイナマイトを使うから危険なので、国家試験を通っても2年に1回、保安講習会をやって保安手帳をもらわないと仕事ができません。僕は今その技術関係の講師をやっています。
 そういう者が環境省の自然公園の指導員をやって、去年はご苦労様でしたといって何とか賞をもらいました。指導員の定年は73歳だそうで、今度は定年になって感謝状までいただきました。何か変な気持ちです。
 岩石発破の仕事では、現役時代は50万トンの山をいっぺんに崩す大発破をかけたことがあります。まだ世界で誰もやったことのない新しい火薬を使った。それは硝安油剤爆薬またはAN−FO爆薬というのですけれど、田圃にまく硝安と燃料の軽油を94対6の割合で混ぜてダイナマイトで火をつけると爆発します。単に肥料と油を混ぜただけで、世界で初めて50万トンの山を崩した。僕はそういうのが得意です。誰もやっていないからやるわけで、結果なんか知っちゃいない。そうすると本社の社長とかがたまげて、あれは何とかブレーキをかけなきゃならんというので、僕はあまり偉くならなかった。社長や重役が来たって山へ入って、会社にいないのですね。「俺が来てるのに何でいないんだ」と言えば「先に予定をたてていたのだから、後から来ていないなんてとんでもない」となっちゃうわけです。
 前例のない大発破を計画すると、日本中から500人くらい見に来ました。これから大ドラマを演出しようとしてる時に、会社は東大の先生か何か神様みたいな人をよこして何とか止めさせようとした。けれど、僕に口説かれて「じゃやってみますか」と言ってそのまま帰って行った。うまくいったからいいようなものの、いかなかったら首ですね。そんなことばかりしていました。
 私の会社は黒姫山の近くにありますが、黒姫山は全山石灰岩です。その石灰岩を発破をかけて崩して、それを原料としてビニロンとかウエットスーツとか自動車のタイヤのゴムとかチューインガムなんかの元を造っています。どういうふうに化けるかというと、石灰岩とコークスを電気炉で2千度で溶かして炭化カルシウムにする。それに水をかけるとCHというアセチレンガスが出る。それを誘導して高分子結合させると、ああいうビニル系の化合物が出来ます。
 話を地質のことに戻します。
栂海新道を50年もやっていて、さらに地質では何億年もさかのぼりタイムスリップしたような感じになります。その話はとても1時間半では語り尽くせないのですけれど、白馬岳から日本海までの間には、地球誕生から日本アルプスがどうして出来たかを考える手がかりがあり、学術的に非常に興味がある場所です。土砂とか石灰岩とかの海底の堆積物がプレートの境目である海溝部分に集められ、それが押し上げられて附加帯の地層を形成します。日本列島を横断する附加帯から、日本列島がどういう地層から出来ているのか分かります。

 皆さん、プレートとかフォッサマグナとか糸魚川−静岡構造線とかいう言葉は聞いたことがあると思います。山をやっている人だと、一回は耳にしていると思います。フォッサマグナというのは大地溝帯でして、溝の大きなものという意味のラテン語です。その西縁が糸魚川から静岡まで通っているので糸魚川−静岡構造線、略して糸静線といいます。
 糸静線はユーラシアプレートと北米プレートとの境と言われています。ユーラシア大陸つまりシベリアの方から、日本列島がちょん切れて横ずれ断層で滑ってきた。滑りやすい現象をつくったのはマグマです。マグマが地下を暖めて花崗岩が持ち上がって滑ったわけです。大陸から切り離された日本列島が太平洋の方へ向かってきた時に、前面に障害物としてあったものが伊豆七島です。伊豆諸島が頑張っていて、そこへ衝突したために日本列島が曲がってしまった。その時に出来た断裂帯がフォッサマグナです。これはナウマンという人が唱えた学説です。他にも原田豊吉博士の富士帯とか山下昇博士の信越−房豆帯とかの説が出ましたが、富士帯が消えていって、そのフォッサマグナ説が今でも厳然と残っています。

 糸静線は日本列島のちょうど真ん中を裂いている断層帯で、それを境にして西南日本と東北日本に分かれます。境界の一番北は姫川です。姫川の東側は旧糸魚川市で、西の富山県側が旧青海町です。それが今度の町村合併で一緒になった。地質の分からないやつが決めたと、僕は非常に不満なのです。青梅は当然西日本に入るべきなのに、東北日本側の糸魚川市と合併したのはおかしな話だと思っています。だったら名前を変えろと選考委員を選んで投票したら五分五分だった。最後には首長さんが3人いて、2対1で糸魚川市になってしまったわけです。
 北アルプスを代表する岩といえば花崗岩ですね。例えば燕岳へ行くと侵食され風雪に削られたすばらしい造形がありますが、あれは御影石つまり花崗岩なのです。立山や剱へ行っても花崗岩があるし、常念山脈へ行っても花崗岩がある。やたらに花崗岩が出てきますが、その花崗岩はみな同じかというとそうじゃないのですね。

 最近北アルプスのカルデラ説を唱えている信州大学の原山先生が年代測定をやって、花崗岩の生成年代を7区分くらいに分けたのです。一番古いのは立山・剱を作っている毛勝岳花崗岩で、一億八千万年前という非常に古い時代の花崗岩です。次には、来馬層に接する9千万年前の黒部川支流の北俣谷花崗岩で、栂海新道の犬ヶ岳付近もこの北俣谷花崗岩です。それから燕のあたりの有明花崗岩が7千万から6千万くらい前になる。その後が7百万年前の黒部別山花崗岩、2百万年前の黒部川花崗岩と続き、一番新しい滝谷花崗岩となります。
 このように、今まで花崗岩は一般に中生代の白亜紀とか三畳紀、ジュラ紀くらいの頃だといわれていたのですが、最近140万年前の新しい滝谷花崗閃緑岩が発見された。滝谷花崗閃緑岩が北アルプスの造山運動に影響し、火山活動で生成されたカルデラを押し上げたというのです。

 槍や穂高、鹿島槍・五竜・爺岳とか笠ヶ岳、あそこらへんは昔大きな火山があった。火山は溶岩を噴出すると中が空洞になって、ストンと落ちる。するとカルデラという窪地ができます。その中に水が溜まったのがカルデラ湖で摩周湖とか十和田湖がそれです。北アルプスのカルデラは非常に大きくて、下に黒部川花崗岩という2百万年くらい前の花崗岩があり、北アルプスの火山はそれよりもちょっと古いのです。
 カルデラ湖の中に溜まった土砂が固まって堆積岩になる。海底火山の溶岩の火山灰が固まったのを溶結凝灰岩というのですけど、その凝灰岩がその隣にあるのです。その下にあるマグマが上へ上がってきて、カルデラを持ち上げてアルプスを造った。爺岳あたりでは持ち上げられて垂直の層になった堆積岩と凝灰岩がくっついていますが、そのようなことからカルデラ説が出てきたのです。
 それが
200万年くらい前の第一次造山運動です。日本アルプスは3回大きな造山運動があったといわれており、今のような形になってきたのは70万年くらい前です。70万年の間で1,500〜1,600m隆起していますから、日本のアルプスが世界で一番造山活動が激しいのです。ヒマラヤは8000mになるのに7、8千万年かかっていますから、桁違いに日本列島の脊梁山脈というのは活動が速いのです。急激に上げられれば削られやすくなりますが、1年に数pですが、今のようなプレート活動が続いていけばヒマラヤクラスの高さになるのはそう遠い話ではないのです。もちろん、人生100年では見届けるわけにいきませんが、そういうことになると思うのです。
 糸魚川にフォッサマグナミュージアムという博物館があります。これを作るときに僕も少し関係したので、中に僕が集めた石が並んでます。また、青海町にも自然史博物館があるのですが、並んでいる石の半分くらいは僕のコレクションです。その中に日本の高峰30座の石という展示があって、富士山のてっぺんから30番目までの高山の頂上の石が並んでいます。高峰の頂上の石を解説することは、日本列島の脊梁山脈を形成する地質構造を説明することになります。そのコーナーは飛騨山脈から木曽山脈・赤石山脈までずっと解説してあります。
 もちろん栂海新道のコーナーもあります。そこには白馬のてっぺんから波しぶきをかぶっている親不知の波打ち際の石までずーっと岩石標本が並んでいる。その途中にはアンモナイトの化石もあります。菊石山はアンモナイトの化石が出るのでつけた名前で、中生代のジュラ紀、恐竜やアンモナイトがいっぱいいた時代の地層です。当然この中には恐竜のえさになっていたシダ植物の化石も多くあります。
 地質学というのは早い者勝ちなのですね。「俺はこうだ」と言えば「そうか」ということになり、そのうち何か違う根拠が出てくると学説も変わってくる。僕が栂海新道でアンモナイトを見つけたら、学者が「そこの地層からアンモナイトは出るはずがない」。「出るはずがないったって、現実に出てきたんだ」と証拠を見せると、「じゃあちょっと地層の区分をずらそう」と言うことになります。学説は現場の実態で決まるのは当然ですが、地質学というのは足学なのです。足で歩くといろいろと細かい変化が分かるわけです。僕はアンモナイトの発見者ですけれど、どうやって見つけたかというと、1年に5、6回ずつ入っていくわけですから、下を向いて歩いていれば犬も歩けば何とかで、そういう恩典があるのです。ただ、人の後ろから前の人のお尻を見て歩いているだけでは見つけられませんよ。もっときょろきょろして、廻りに関心を持って歩かないとだめですね。

栂海新道の地質断面

ここにあるのは栂海新道の地質断面です。
僕が現地踏査をした結果をまとめたもので、世界にこれ一つしかない。何百回も歩いていると細かい変化が見えてきて、こういうものが作れるのです。もちろん、地下の部分は見たわけではないですから、ロマンの世界ですね。

 栂海新道の大部分は飛騨外縁帯の附加帯で、海底に押し付けられて固まった岩石です。黒姫山の石灰岩は石炭紀からペルム紀の秋吉帯に属し、秋吉台の石灰岩と同時代のものです。黒姫山の南側に深い竪穴洞窟群があって、深度は日本で1番から5番目まであります。秋芳洞とか竜河洞とか竜泉洞とか日本に鍾乳洞は万とありますが、黒姫山のは竪穴が有名です。

 次に地形の話をすると、白馬のあたりは非対称山稜というやせ尾根ですね。黒岩平から北も、急に蛇が蛇行したみたいな非対称のやせ尾根になっています。このあたりは日本で一番雪が多いのです。黒岩平は1,600〜1,800mくらいの標高なのに、深い所は7、8mあり万年雪が残っているという非常な豪雪地帯です。やせ尾根では雪が季節風に吹かれると、ものすごいオーバーハングの雪庇ができます。この雪庇が新潟県側に崩れ落ちて、新潟県側が削られていく。富山県側はサーッと吹雪が撫でていきますので割合傾斜が緩いから、非対称のやせ尾根になります。栂海新道へ行かれた方は気が付かれたと思いますがそういう地形が特徴です。
 植物でいうならば、雪が多いために立木が立たないで、木本でも矮性のチングルマとかツガザクラとか草本のヌマガヤの草原になるのです。だから黒岩平のような準平原的な場所では、雪解けの水がじわじわとしみてきて高層湿原帯が出来る。このような高山帯から亜高山帯に変わり、高度を下げてブナの原生林から深山帯に入り、最後に低山帯から海岸植物になる。ここでは、波しぶきをかぶって日本海の荒波に洗われてるような植物から、氷河時代の生き残りの高山植物までの垂直分布が見れるのです。こういう地形は日本では他にないですね。アルプスが直接海に落ち込んでる所だからこういう植生になっているわけです。

 中高年の女性は「お花がきれい」なんて言って、栂海新道へ来ると立ち止まって歓声を上げています。アヤメ平のすばらしいお花畑を僕は「桃源郷」と言っているのですが、山は草花だけではないわけで、草花も地面の上に生えているのです。地面の中を知らずして草花を語るなかれ、と言いたいのだけれどなかなかそうはいきません。「花がよかった」と言うから「アンモナイトの化石採ってきた?」と聞くと「それなあに?」という感じでがっくりです。
 ただ花の咲いているのを見るだけじゃなくて、植生が高度によってどのように変化するか、あるいは積雪とか季節風とかの気候によってどのように地形が変化するかを見るのには最適のルートです。0mから3000mくらいの差があるのに、白馬まで40q、栂海新道27qという非常に短いスパンの中でそれだけの変化を見られるというのはそうないと思うのです。そういう余禄が栂海新道にはあるのです。
 もう半世紀も栂海新道へ通っているのですけれど、毎回新しい感動があります。やはり自然はすごいなと思いますが、そういう変化を目の当たりに見せてくれる。僕はそういうものを撮った写真で、毎年フォッサマグナカレンダーを作っているのです。今年でちょうど20年です。名前の割に中身は大したことはないのですが、それでも四ッ切ワイド版の12枚めくりで作って、地域の資源をPRしてきました。

 栂海新道をどうやって作ったかという話をします

 前にも話しましたが、栂海新道の延長は公表27qという長丁場で、作るのに約10年かかりました。その10年間にはかなりの紆余曲折がありまして、中断のやむなきに至る一歩手前とか、営林署につかまって書類送検の一歩手前とか、会社を首になる一歩手前とか、いろいろありました。僕には国有林の無許可伐採という前科がありますが、それでも挫折しなかったのは、ひたすらにアルプスと海を繋ぎたいという情熱だけでしたね。僕はわりとしつこくてあきらめない質なのです。そういう気持ちを持っていればおのずから意は通ずるで、いつかどこかで道は開けるものです。でも、振り返ってみたら10年かかっていました。そんなくだりは、山渓の新書から出ている「山族野郎の青春」という本に書いてありますが、一朝一夕にああいうルートが出来上がるのものではありません。
  私は表日本のいわき市出身の人間です。学生時代に黒部とか富山とか能登半島に遊びに来たことはありますが、それは単なる遊びで、実のところ日本海なんて初めてでした。青海という田舎町でしたが、会社は新潟県で一番大きな工場で黒姫山の麓にあり、そこの谷合い全部が工場です。入社したら現場の先輩たちが「ここへ来たら黒姫権現様に挨拶してこい」と言うので、しかたなく入社1週間目に黒姫山に登りました。
 非常に天気が良くて、朝日岳からの稜線が眼前に広がっている。その山並みにすごく感動して「あの稜線は何だろう」と思って調べたら、日本の脊梁山脈で白馬岳、朝日岳から親不知で消滅していることが分かった。ところが、登山道は白馬岳から朝日岳へ縦走しても、蓮華温泉に下るか富山県側の小川温泉に下るしかなく、朝日岳から北へは全く道が無かった。そこに道を作ったら海抜0mと3000
mが繋がると、とっさに思いましたね。そのために後で引っ込みがつかなくなってしまったのです。
 登山道を作るなんて皆目見当がつかないけど、何としても作りたい気持ちが日増しに強くなった。だけど1人で道が出来るわけはないので、人を集めなきゃいけない。そこで仕事をしてる連中を7人集めて、昭和36年(1961年)に「さわがに山岳会」を結成したわけです。 登山道はどのようにして作るのか、藪刈りってどうするのか。プロローグが必要だと思って、最初に黒姫山にさわがに新道を作って黒姫小屋を建てました。その時鉄工所に行って小屋の見積りをしたら10万円だった。その頃、社員は寮に入ると結婚資金を貯めるのです。僕も、嫁さんをもらうことがあるかもしれない、と人のまねをして貯めたのがちょうど10万円あったのです。それをすぐにおろして、山小屋の材料を買いました。足りない分は現場にあるダイナマイトの空箱をばらして板張りに使ったりして、とにかく作りました。
 「出来るじゃないか、さあいくぞ」といよいよ栂海新道の本番に向かったのです。といっても、27qの全コースを「さあ、一気に伐り通すぞ」と言っても誰もついて来ませんよね。一銭にもならないことを自腹を切ってやっているわけですから。
それで作戦を練ったのです。このコースを3つに分割しました。栂海新道の途中に犬ヶ岳がある。栂海山荘がある所で、
1593mあり青梅町の最高峰です。途中までは発電所の工事で林道が入っているので、その先犬ヶ岳まで道をつければ青海町で一番高い山に夏でも登山できる。これはいい、ということで「登山道を作って皆に開放しようよ」と声をかけたら、だまされた連中が「やりましょう」ということになった。そして、2年くらいで開通して犬ヶ岳の頂上に立ったのです。
 その次ですが、「向こうに朝日岳があるだろう。あそこまでは登山道が来ている。この間を一気にぶち破れば登山者が青海町に下りてくる。これはおもしろいだろう。ザックを背負った人がここを通るよ」といったら、皆「エーッ」となった。「俺は疲れたから止めた」という人もいたけれど、「じゃあ、やりましょう」というのもいた。その連中達とまた始めたのだけれど、今度は民有地ではなく国有林です。糸魚川市と青海町の境も国有林だし、稜線は県境になっている。県境を境に営林署の管轄が違う。富山県側は朝日町に担当官がいて、富山に営林署があり名古屋営林局なのです。こっちは糸魚川市に担当官がいて、高田営林署で前橋営林局です。関係するところが6箇所もある。
 ある時、民有地と国有地の境にくい打ちをするために業者が入ってきたけれど、道があったために1週間くらいで工事が終わってしまった。1ヶ月の予定なのに何でそんなに早く終わったのかと聞かれた業者が「立派な道があったので早く終わった」と答えた。「そんなはずはない」と営林署の担当官が飛び込んできた。よく調べたら「ザリガニ山岳会」というのが観光協会から金をもらって登山者を町の方に誘導するために道を作ったということになった。とんでもないやつらだと、僕は担当官から呼び出しを受けました。そんな騒動があったり、国立公園、保安林、特別天然記念物などがあり、それが解決するまでは大変だったのです。1年半ぐらいかかり伐採許可がおりたので、再び藪刈りを始めて、とにかく道は朝日岳まで繋がりました。
 そして最後に「この道は飛騨山脈沿いに親不知まで開通して初めて日本海と繋がるんだ。だから全線を繋がないと縦走路にならない。そうなると3000mから0mまで歩いて、海水浴して帰れるじゃないか」。「とても務まらない」と会員が又減ってしまった。毎年入ってくる新入社員を糸魚川の焼き鳥屋に連れ出して飲ませてだまし、無理に引張り込んだこともあります。リーダーはだましがうまくないとだめです。ただだますだけでは長続きしないので、ちゃんと啓蒙してシンパにさせないとだめです。そこまでなるにはかなりの時間と努力がいるのですが、とにかくこうやって全部が完成したのです。3つに区切って、1つずつ実現可能な目標にして皆で頑張った。それで結局繋いでしまったというのが真相です。
 「山族野郎の青春」の結論では、僕は極悪人です。絶対に極楽には行けないだろうけれど極悪人にも一つのつぶやきがある。「お前らだって焼き鳥屋でごろごろしてては何もできなかっただろうけど、0mから3000
mのアルプスを繋ぐすばらしい道を開いたじゃないか。それだけで歴史に足跡を残したんだよ」。そういう達成感を味わわせてやったということです。その連中が年をとって全部去って行けば次また集めてくる。山小屋を作ったときに資材を50キロも背負わせたら「こんなことやっていたら殺される」と皆逃げてしまった。そこでまた人夫集めに工事を中断したりして、結局10年かかってしまいました。「継続は成果なり」です。

 道を作っていた頃の話をすると、僕は夜中に登るのが得意でした。朝登ると藪刈りの時間が半日つぶれますから、会社を終わって夜登ります。夕方からだんだん暗くなってきますが、真っ暗な中でも電灯はいらないのですよ。目が慣れてきて自然に順応する。現地に12時か1時頃着いて仮眠して、次の日朝から藪刈りをやるのです。
 今は体力がなくなりましたが、ナタ使いは名人芸に達した感があります。スパーンと一刀の元に伐り落す感触は最高です。僕の車の中にはいつも手作りの名刀が入っています。隣の朝日町の鍛冶屋さんに作ってもらったものですが、その愛用のナタを後生大事にかたくなにぶらさげながらやっているのです。今は草刈機でやっちゃうから、そういうものを使ってる人は少なくなってしまいましたけれどもね。

熊と会った話
 熊と会った時どうするかというと、僕は熊としゃべるのです。熊語がわかるわけじゃないけれど、とにかくお互いに親愛の気持ちがあれば通じ合えます。子連れの熊はすごいですよ。ばったり道のカーブで会うと立ち上がるのです。子熊はこっちへ寄って来ますけれど、「いっちゃいけない」と押さえて威嚇します。あれはすごいですよ。その時僕は「脅かしちゃってごめんね」とか「あそこにドングリいっぱいあるよ」とかちょっとゴマをするのです。そうやってじっとしゃべっていると、結局ヤブの中へ戻っていくのは熊さんなのです。後で脇の下に冷たいものがあったりしますけれどもね。

 今年はブナの実とかドングリの実が不作で、ナナカマドの実も一つもなっていない。熊は食べ物がないから、みんな里へ出て行って片っ端から撃たれて、山中では全く見られなくなりました。僕は毎年必ず11月の23日に黒岩平へ行きます。中俣新道から近道で行くのですが、雪が膝くらいあって、いつも一人ですからラッセルするのが大変なのです。その時、一番助かるのは熊が冬眠に行くとき踏んでいったトレースです。だから熊さまさまです。僕のカレンダーの11月の写真は全部熊のおかげなのです。それが最近は全然いなくなって、里でどんどんやられるものだからかわいそうでしょうがない。この前も新潟日報に「熊を守れ、里へ出てこなくてもいいような環境を作ってやれ」と投書したらでかでかと載りました。

栂海新道の手入れ

 栂海新道を作ってから35年間、毎年手入れをしています。これも並大抵じゃないのです。最初は「それっ」と旗を揚げてやるのだけれど、同じことの繰り返しが際限なく続くので「こんなことたまったもんじゃない」と皆去っていく。今は4つのグループが区間を区切ってボランティアでやってくれます。例えばある会社では、100人くらいの社員が半日来て0mから白鳥山の間を、会社の事業としてやってくれる。奇特な社長もいるもので、ありがたい話です。社長が「今の若い者は人のために汗を流すことを知らない。ここで藪刈りをやって汗を流して、その後皆で一杯飲んで明日からまた頑張るぞ」と社員教育の場として藪刈りをしてくれている。もう15年も続いていて、会社がつぶれるまでやるといって社長自ら来て朝出陣式をやるんです。「藪刈りができるということは会社がつぶれていないということだ。喜ばしいことだから今年も頑張らなきゃいけない」と言っています。
 道の手入れを毎年続けているので、10年前に栂海新道を歩いた人が見れば今は格段によくなっているのが分かると思います。ステップを作って整備し、緑化マットを敷いたり、登山者の増加と共に栂海山荘も4回増築しました。

これから記録したスライドをやります。(スライド映写)

 私は青海へ来て45年間、ライフワークとして栂海新道にかかわって年金をつぎ込んで山小屋を増築したりしています。それがなければもう少しましな人生を送れたかも知れません。しかし、道楽の報酬というのはすばらしいもので、いろいろな栂海の自然に出会って感動したし、いろいろな人と会って交友も出来ました。自然を紹介することも出来たし、本を書くことも出来ました。いろいろなものを栂海からもらいました。やはりやってよかったと今しみじみ思っています。
 今はまだ会社に行っていますけれど、出来れば山小屋に1ヶ月もいて、いろいろな人たちと栂海新道の生い立ちでもしゃべるような楽しみ方もしたいものです。皆さん機会があったらぜひ来てください。私がいるときに来れば、飲み物などはヘリで上げますので十分あります。手ぶらで来てもらっても結構です。「いてくれ」と言われれば万難を排して上がっていますのでぜひご利用下さい。とりとめのない話になりましたが、以上です。ご静聴ありがとうございました。(拍手)

                                   (平成18年11月10日 講演)

   前ページへ戻る