山岳講演会                 2011年11月11日 講演

     [演 題] 阿曽原から見た黒部峡谷

     [講  師] 佐      (黒部、阿曽原小屋 経営者)

 ただ今ご紹介いただきました、富山から参りました佐々木と申します。下の名前、泉です。かわいい名前やとよく言われ、実物見て何だと言われて51年、51歳になりました。もともと警察官やっておりました。高校出て富山県警察に入りまして、山岳警備隊員として山の中でレスキューにずっと携わっておりました。暇なときは,下の方で普通のお巡りさんもやっておりましたので半々ぐらいですけど、最後の3年ぐらいはシーズン中は山、下降りてきた冬場は柔道場にずっと通いづめというような形でやっておりました。

講師の佐々木泉氏

 公務員辞めたからといって、悪いことしたのではありません。本格的に山で生きていこうということになっただけです。もともと山に入りたいから富山県の山岳救助隊に入ったわけで、年取って体が動かなくなったら「普通のお巡りさんやっとってもなあ、どうしようかな」と思っていた時にたまたま山小屋が売りに出るという話があって、それに乗っかったのです。それも地元黒部のちょっと変わった所にある山小屋です。黒部峡谷という所は、関西電力の電力事業とか国土交通省の砂防堰堤の工事とか色々なことが絡んでおりますので、先代の方が出来れば地元の人間に譲りたいということだったのです。私、生まれが宇奈月温泉なので、話に乗ってこんかいということで、警察官退職して山小屋へ入って今19年目です。

 岐阜市内はあまり来たことないのですけれど、隣の愛知県の小牧に中部管区の警察学校がありまして、そちらの方に3か月ほど研修で来ていました。毎晩毎晩酒飲んで、えらいお世話になった所でもございます。それから、可児市に関西電力の東海支社があるのですけれど、そちらの方の送電線の鉄塔屋さんや鉄塔係の方の講師ということで2、3年前から来ています。冬山で鉄塔にトラブルなんかあったりすると山に入らなければならないということで、こちらの方へ来て講演会やったり現場に行って一緒に歩いたりとかいうこともやっております。

私は普通の山小屋の普通の仕事もしているのですけれども、後から説明しますが山小屋の仕事以外の仕事もたくさん依頼されています。阿曽原で,普通の登山者ばかり相手にしているわけではありません。災害復旧であるとか、いろんな作業にも出ております。どうしてかというと、黒部峡谷は非常に険しい所です。非常に険しい所ということは、電力会社や国土交通省など色々入ってきていますけれど、土建屋さんではなかなか入れない場所が一杯あります。そんな所で,私は小屋の従業員やガイド連中と一緒に色々な作業をやっています。

「ああ、山ちゅうとこはえらいとこやなぁ」と改めて認識させられる事が一杯あります。「山へ入る時は、こういうことも気いつけなならんのやなぁ」といろいろ考えさせられます。そんなことを,皆さんにご紹介できればと思ってやってまいりました。1時間ほどですけれど、どうかよろしくお願いいたします。

 黒部峡谷という所には,皆さん色々なイメージを持っておられると思います。黒部ダムを作ったときの話しが「黒部の太陽」という映画になっております。非常に印象深い映画です。未だにビデオになっていないのは、石原裕次郎さんが「こんなすごい映画は映画館でしか見せるな」と遺言されたからだそうです。そのためビデオ屋には出回っておりません。プロジェクトXというNHKの番組で紹介されたこともありました。

白竜峡 仙人ダム付近のコの字型の道

 黒部ダムは、観光地ですから皆さんよくわかっておられると思います。私の小屋は、そこから黒部川沿いに大体18キロ下った所にあります。黒部峡谷という所は非常に険しい所です。
この写真は、その中でも白竜峡という場所で断崖絶壁が続き、その岩を削って狭い幅で道をつけています。こんな所ばかりじゃないですけれど、そんな所も多いです。トロッコ列車の最終駅である欅平から、黒部ダムの上流の平(たいら)まで、とりあえずルートができあがったのは昭和4年だそうです。平は今はダム湖に沈んで湖岸に小屋がありますが、昔は川床に平の渡しという渡しがあった所です。

十字峡

この写真は十字峡という場所で 、冠松次郎さんが初めて十字峡を発見したのが大正14年ですけれど、その当時はまだこの道は出来上がっていませんでした。それまでは「点の記」の映画に出てきましたが、陸軍の陸地測量部が地図を作っていたのですが、黒部の一番険しいこのエリアについては、詳細な地図が全くなかったそうです。地質学的にも十字峡という形になることはありえないということで、十字架にならずに違った所に両側から沢が来てる地図があったそうです。それを冠松次郎さんが見つけて、大発見ということで黒部が注目されるきっかけになった所です。冠松次郎さんはこの川を全部探検してやろうということで頑張って十字峡をすぎて先の写真の白竜峡に来たのですが、最初の探検ではここをどうしても突破できなくて50mぐらい下流で対岸に渡って、山に取り付き後立山の頂上へ迂回して帰ったそうです。

 ちなみに、黒部峡谷一帯は江戸時代には隣の石川県の加賀藩の直轄地になっていました。ここは富山県ですけれども、富山県は石川の加賀百万石の分家なのです。だから富山県のあっちこっち、例えば金の採れた所とかは加賀藩の直轄地でした。軍事的な色合いもあるのですけれど、信州側から山越えして攻めてこられないように、山の中の詳細な地図を作らず、一般人は立ち入ってはならないことになっていました。山回り役というものが別個に作られて、中に入って見てきたことを里へ行って絶対しゃべってはなりませんという直轄地で、地図上の空白地帯になっておりました。

 今は人が入ってると言いながらも、上流に黒部ダムがあるからこれだけの少ない水量なので、黒部ダムがなかった当時はとてつもない流れであったはずです。昭和2年に冠松次郎さんが旧の文部省から委託を受けて、36ミリカメラ持ってここらへんを探検した映像が東京の近代美術館に残されているのですけれど、それ見るとやはりもの凄い水量ですね。そういったことは今は見たくても見れません。今でも大雨が降った時とかは凄いことになってるのだろうと思いますが、そんな時にこんなとこへは行けませんので私も見ていません。

 何でこんな所に道を作ったのかというと、黒部という所は大量の雪が降ります。日本海側で雨も沢山降ります。それで川の勾配がきついです。ということはダムや水力発電所を作るには非常に有効な場所なのですね。沢山の水があって勾配があれば沢山の水を落とせる、落とした水で発電機を回せば沢山の電気が効率よく取れるということで、戦前からずっと開発に入っている所なのです。

 どこにダムを作るか、どこに発電所を作るかの調査用の道を各社が作りました。私が文献読んだだけでも3社入っています。今の道は日電歩道という名前が残っていますけれど、旧の日本電力という戦前の会社が作った道です。対岸の右岸のほうには古川合名会社という古川財閥の会社なのでしょうか、それと東信電力という会社が調査用の道を切り開いておりました。競争しながら調査をして、最終的には日電が昔の内務省に申請を出して「ダムを作ってもいいぞ」という許可が出たそうです。

 ダムの調査のためということで、この道は基本的に水平に作ってあります。十字峡からちょっと下がった所にS字峡があります。ここらへんまで下がって来ると道から川床までの高さがかなり高くなります。先ほど言いましたけど道はずっと水平で河川の勾配がきついですから、上流へ行けば川床と道の高さが近くなる。下流へ行けば行くだけ、どんどん川と道の高さが大きくなっていくことになります。S字峡のあたりまでくるとだいたい100mくらいの高度差があります。

 話が外れますが、S字峡のちょっと上流で川床まで80mの所、私はザイルで降りたことがあるのです。今は名前変わりましたけれど、昔日本テレビ系列の「ズームイン朝」という番組があって、「奇跡の生還」というタイトルでこの時のことを紹介させてもらったことがあります。秋も大分遅い10月の17日、台風直撃のため80人のお客さんが全部キャンセルになったのに、1パーティだけ入ってきたのです。その夜に富山の真上に台風直撃という日でしたが、夕方までに阿曽原へ十分届くからと言って強行して入ってこられたパーティの中の1人が落ちたのです。普通80mも落ちればだめですけれど、運のいい方で命ありまして、助け上げることになったのです。私ら現場へ行ったのが5時過ぎ、もううす暗くなっています。だんだん台風が近づいてきて、風で木が揺れる。揺れたら木の根っこに止まっていた石がぶんぶん降ってくる。非常に恐ろしい現場だったのですけれど、夜中までかかって担ぎ上げました。今ではもう社会復帰しておられます。

S字峡

 S字峡は見た通りS字になっております。川の水の勢いでどんどん削られて深い谷が出来上がっています。ただそれは水の力だけではありません。黒部というところは面白い所で、右岸側の岩と左岸側の岩を年代測定すると全然違うそうです。右岸側はもの凄い古いのですが、立山連峰がある左岸側は新しい。地質の先生に言わせると、隆起と沈降の境目でいってみれば活断層なのですけれど、昔ずれた跡でもろくなっている、そこへ水が流れるとだんだんえぐれていく。それでどんどん深くなっていって出来上がった谷だそうです。ですから、黒部はどこに行っても温泉があります。地質の先生に言わせれば、温泉が出るということは、地下のマグマが比較的近い所まで来ているらしいのです。言われてみれば、そうなのかなというところです。

 だから、私の小屋にも温泉があります。吉村昭さんが書かれた「高熱隧道」という小説の舞台になったまさしくその場所が私の小屋です。小屋の建ってる場所の、基礎も戦前の工事の時の飯場の跡に作ってあります。図書館へ行けば吉村昭さんの本があるはずですので読んでいただければ分かりますが、非常に面白いというか大変な所です。ダムを造るためのトンネルを掘りました、掘ったらだんだん熱くなって、岩盤の温度がとうとう160度以上になってしまった。戦前ですから大した機械もない。人間が小さな穴掘って、そこにダイナマイトを埋め込んでボンと崩してそれを外に運び出していたのです。その基地になっていた所が私の小屋ですけれど、そのように大変な難工事の末に黒部では戦前からダムが造られていました。

 この写真は、S字峡のちょっと下流に仙人ダムというのがあるのですけれど、その付近の道は岩を削ってコの字になっています。今は岩を削ってありますけれど、昔はこんな丁寧な仕事はしてありませんでした。昭和29年に、ここを歩いた時の映像が残っています。それは凄いもので、一枚の岩壁のままです。岩壁から太い針金を垂らして、そこらへんにあった木を切り倒して吊して、壁に沿わせた「吊り桟道」でやっております。今みたいに岩盤を削って道を作り出したのは昭和32年頃からと言われています。

 どうしてかというと、関西電力が上流に黒部ダム造る時に、当時の厚生省から「ダムを造ってもいいですよ」という許可の条件に、日電歩道をもう少し安全な道にしなさいよと指導されたのです。もう一般登山道として認知されていたので、ダムの調査の道だからダム造ったらもう必要ないから整備しませんというのではなくて、ダムは造っても良いけれど道も整備して下さいよということです。それで、こういった大変な工事をして今の下の廊下の登山道が出来上がっています。

 黒四の発電所は、山の中に隠されています。黒部ダムで溜めた水を、後立山連峰のどてっぱらに開けたトンネルで運んできて、ここで水を落として発電します。ちなみに何年か前、紅白歌合戦で中島みゆきさんがこの地下発電所の前で歌っておられました。「黒部ダムへ大晦日に行くとはNHKもえらいことするな」と思ったけれど、さすがに外ではなく地下で歌っておられました。ということは真冬でもここまでは行けますということです。
 発電所は、今は殆どどこでも無人化になっています。遠隔操作できるようになっています。監視画像とデーターを送って、下界でスイッチ一つで止められるような形になっているのですけれど、ダムというのは人間が見張りしていないとやはりだめなのです。

 どうしてかという顕著な例ですが、私が警察官やっていた最後の年か2年前の年の訓練で3月の第1週に剣岳へ登っていました。一般的に言う春一番が吹いた日で、もの凄い前線がバーッと富山平野へ入って来て、山で暖かい雨がザーザー降ったのです。3月で山は真っ白です。雪が一杯たまっていて雨が降ったらどうなるか。当然、雪崩ますね。十字峡の上流、さっきの白竜峡からちょっと下がったあたりで山じゅうの雪が雪崩れて黒部の谷をせき止めたのです。それが水の重みで一気に決壊して、下流の仙人谷ダムの事務所の中まで入って行って、真冬なのに雪水で1人が亡くなられた事故がありました。

 そういったことは、どれだけ技術が発達しても機械まかせでは出来ないそうです。鉄砲水でも何でもそうですけれど、水の色とか減り方の異常さというものはやはり人間がぱっと見て瞬時に判断しなければならないことが一杯あるそうです。それで、黒部ダムから発電所そこからこの下流の欅平までは真冬でも行けるようなルートが確保されています。それを使って中島さんも大晦日に入ってこられて歌っていかれたのでございます。

 ちなみにこの写真の、奥の尾根をずっと登っていくと後立山の五竜岳、発電所のあるこの尾根をずっと登っていくと鹿島槍になります。長野と富山とは直接は行けないのですけれど、本当は黒部の谷を挟んだ対岸で非常に近いのです。ただ黒部が険しすぎて行くルートが無い。迂回しないとなかなか行けない所になっております。

地下発電所の有る尾根 仙人ダム付近の歩道

 黒部では、宇奈月温泉から山の中の欅平まで川沿いにトロッコ電車を走らせています。もともと電源開発のための資材運搬用に作った線路ですが、今は年間50万人以上の観光客が来られる大事な観光資源となっています。平成14年9月17日の夜、途中の東鐘釣山で大きな崩落があり、下を通っている鉄橋に穴を開けて、それを直すまで1年間電車が動かなかった年があります。
 その復旧作業時に皆を集めてくれと言われたのです。私の所には、各県の民間救助隊員が集まって来るので、この山の山掃除というか石掃除というような作業を委託されたのです。東鐘釣山はてっぺんから下まで370mぐらいあります。お寺の鐘のような形をしているのでその名前があるのですけれど、変わった山です。

 今度来られた時に見てもらえば分かりますけれど、黒部川は川原の石がわりと白っぽいです。白っぽいというのは花崗岩、御影石。まあ墓石に一般的に使われている石で大体がそうなのですが、この山だけは石灰岩です。石灰岩が何でこんな山の中にあるのでしょう。石灰岩というのはご存知の通りサンゴ礁です。日本の近海でサンゴ礁がこれだけ大量にあるわけない、どこから来たのかという話になったら、砂が混ざっているから、たぶんアジアの南の海からだそうです。ちなみに、お隣の糸魚川の石灰岩はハワイから太古の昔に日本へやってきていっぺん沈んで再び隆起したものだと信州大学の地質学の先生や他の地質の先生も言っておられますが、不思議なものですね。

 石灰岩は水に溶けます。だからちょっとしたクラックに木の根が入り込んでいく。クラックは冬の間に氷でまた割れる。それがどんどん進んでいって、あの日強い風が吹いた時、多分木がバカンと倒れた時に根っこごと引かれて、入り込んでいた岩の割れ目を広げて、岩壁ごと崩落したものと考えられます。その大きさは高さ27m幅9m、厚さはよく分かりませんが4、5mはあった。要は5階建てか6階建てのビルがひっくり返って壊れながら鉄橋にぶつかっていったのです。

 崩落した岩が落ちていく間に色々山の斜面を壊しますので、不安定な石が残っています。今は分厚いコンクリートの三角屋根を作って鉄道の鉄橋を保護するような形になっていますけれど、工事に掛かる前に不安定な石をどけなければなりません。300mだれも人の下りたことのない広い壁ですから、一人や二人でやってもだめですね。横一列に並んで皆でザイルで懸垂下降しながら、背中に大バールを担いで岩につっこんでごしごしやってポトンと落とすのです。

 300mのザイルなんてありません。100mザイルを1人1本ずつ持っていても、半分にすれば50mしか一度に降りられない。途中で支点を変えながら、切り替え切り替えしながら降りる降りる、また横へ行って降りる、そういった作業をやりました。私でも10回くらい降りましたけれど、若い人たちはもっともっと降りてます。

東釣鐘山の岸壁清掃の様子

 この写真はその内の1人で、「点の記」という映画を皆さん見られたことと思うのですけれど、その時にエキストラで一番大写しになっていた滝に打たれてる若い修験者役で出ていた男です。もともと地元の小学校の教師だったのですけれど、やはり山で生きた方がいいと言って、今は山のガイドをやっています。奥に見えるのは、私と一緒に富山県の警察官やっていた男です。早稲田の山岳部を出て、将来を非常に嘱望されて警察官になったのに、日本山岳会の青年部がK2の遠征隊を出した時に「お前行かんか」と言われて「行きます」と答えた。警察官は公務員ですよね。「2か月休み下さい」と聞いたら「お前去年もヒマラヤ行って、その前にもアラスカ行って休んでいたはずだよね。無理だよ」と言われ。「じゃあ辞めます」と言って今ガイドやっている男です。これも人足役で映画の中に出ています。まあ色々な人間が集まって来てくれて、こんな作業を繰り返しています。

 石が斜面を落ちる時は、斜面にある木の枝なんかを全部引きちぎっていきます。そのため、葉っぱの潰れた臭いや、石がぶつかったキナ臭いがして非常に生々しいです。皆さん、山を歩く時一つ覚えていてほしいのですが、歩いていて葉っぱの臭いとかキナ臭さを感じたら「あれ、これ最近どこかで落石があったんじゃなかろうか」と思ってください。そして周り見渡してみると、枝が折れていたり石と石がぶつかって白っぽくなっているとかしています。

 石が落ちる時には絶対斜面を壊していきますので、落石が走った跡は次の大雨が来るまでは不安定だと思って下さい。雨が降りゃ大体落ちるものは落ちてしまいますけれどね。要は何も考えずただプラプラ歩くのではなく、周りをよく見て音を聞いて臭いを嗅いで歩いていただければ、事故も減っていくように思っているのです。

黒部のもう一つ凄い事が泡雪崩です。ホウ雪崩とカタカナで書いたり色々な表現があるのですけれど、そういった大変な雪崩が出る年があります。阿曽原谷の私の小屋でも、対岸の高いところまでその雪崩の跡を見ることが出来ます。

この雪崩はいつでも出るわけではありません。非常に寒い第一級の寒気団が来て一晩で80pから1mくらい積もるような大雪の時に起きると言われています。「高熱隧道」を読んでもらうとわかりますけれど、鉄筋コンクリート造りの宿舎を対岸まで吹き飛ばしたというような大変な威力のある雪崩です。北海道大学、富山大学、新潟大学などが黒部の谷に来て色々実験したり研究したりしておられるのですけれど、未だその正確なメカニズムは分かっていないのです。

簡単に言えば、サラサラの粉雪は小学校の理科の教科書を見てもらうと分かりますがギザギザですよね。暖かいボタン雪はトゲが無くてただの六角形に近くなっています。サラサラの粉雪の結晶はギザギザ。ギザギザということはこの間にいっぱい空気を含んでるということです。黒部の谷は急ですから、一気に雪が積もってどこかでバランスが崩れると、山じゅうの雪が雪崩れて低い所に集まってしまいます。低い所と言えば谷ですね。この一杯空気を含んだ雪が谷へ集まってぎゅっと圧縮される。空気がぎゅっと圧縮されてそれが弾ける威力じゃなかろうかと言われています。

おととしの冬にも、大きなホウ雪崩がありました。雪崩は低い所低い所へと落ちていくと思うでしょう。ところが、すごい爆風で空中を飛んでいくのですね、空中を。その跡の写真を見ると、積雪ラインよりはるか高い所に大きな木が倒されいました。黒部は寒いし急だし、植物にとって成育条件が非常に厳しい所です。根がなかなか張れないから、木はなかなか太くなれません。その中で大きな木がいっぱい倒されているので、少なくともここまで木が大きくなるまではホウ雪崩れは出ていなかったはずですから、5、60年に1回の雪崩がおととしの冬に出たのじゃなかろうか、ということになります。

今年は、山の雪が沢山ありました。沢山あったけどホウ雪崩が出なかったおかげで、阿曽原谷の残雪は7月中になくなりました。多い年は9月の末や10月になってやっと消えることがあります。私の小屋の高さは大体標高1000mです。日本の本州の中で1000m切る所で10月の半ばまで雪が残る所、そこが黒部なのです。

毎年毎年残ってしまえば、万年雪として剣沢の大雪渓のような形になってしまうところなのですが、標高が低い。標高が低いから暑い、暑ければどんどん溶けます。一つ穴が開けばどんどん崩れ出します。山が急ということは、平らな所にたまってる雪と違ってバランスが崩れるとどんどん崩れ出すのですね。黒部の雪渓は溶けて小さくなるのでは無くて、どんどん壊れていくのです。

阿曽原の小屋は、毎年壊して毎年建てています。どうしてかというと、戦前にホウ雪崩で壊されたことがありますのて、それを避けるために毎年毎年全部解体して、翌年の6月の頭に小屋を建てるのです。そのためプレバブになっています。海の家は大体プレバブですよね。だから、山の中に海の家があるようなものです。

毎年毎年、電気の配線から水の配管から部屋の仕切りをして、玄関は新しく屋根を作ってやります。手間のかかることですけれど、毎回壊してやらないことには雪崩でいつ壊されても仕方ないということになるのです。それくらい大変な雪崩の威力を持った所です。

私達の仕事の一つですが、道も作っています。土建屋さんは、もうけにならないから山の中の仕事にあんまり入ってきません。普通の人では出来ませんから、しゃあないなということで、あっちこっちの仲間を呼び寄せて道を作ります。木道では長さ2m重さ80sあるものを仙人峠で4百数十m敷き詰めました。材料をヘリコプターでチョコンチョコンと置いて、あとは全部ボッカして運び、平らにならして敷き詰めます。平らな所ばかりではないけれど、道がもともとある所なので、これなんかはまあ簡単な仕事の方です。

平成7年の7月11日に大洪水がありました。長野県小谷村で沢の砂防堰堤工事をやっていた業者さんたちが鉄砲水で重機ごと姫川に流されて、大変な災害になったことを覚えているでしょうか、その時に黒部にも大雨が降って、唐松岳から降りてくる尾根の斜面がバカーンと崩れました。高低差は500mぐらいあります。そして祖父谷を埋めてしまった。今年台風の大雨で奈良県の方大変な災害になりましたけれど、それと同じせき止め湖が出来ました。この下流で森林管理署が砂防堰堤を作っていたので、小谷村みたいになったら大変だということで、現場まで何とか道を作ってくれないか頼まれて、薮を切り開いて道を作りました。

斜面が崩れるというのは凄いですね。初めて行った時はびっくりしました。斜面全体が対岸までドーンと滑り落ちてそのまま対岸の斜面を登っていっています。まっすぐ上を向いて立っていた木が、対岸までのし上がって斜め下に向いているのが一杯ありました。大変な威力です。やはり黒部は山が急傾斜なものですから勢いも凄いのでしょうね。この部屋ぐらいの石が平気で川床に転がっていました。そういったもので川をせき止めてしまって自然のダムになっている。水が溜まっているのですけれど、かなり抜けていてあまり心配することはないという状態でしたけれど。

崩れた斜面に後からヘリコプターで植物の種を蒔いたのですけれど、植生はちっとも復元してくれません。地質の先生に言わせると、ここには活断層があってグサグサになっている所に大量の雨降って、自分で斜面を保持できんようになってずり下がったのじゃなかろうかということです。

 私の小屋は、黒部ダムからの下の廊下を通ってくる人だけじゃありません。裏剱で有名な仙人池という所がありますが、夏の間は剱岳から仙人池を通って黒部のエリアへ入って来るお客さんもおられます。そのルートで仙人谷のもともとの道は斜面にトラバースするように有ったのですが、ある年梅雨の大雨がドーンと降った時にガサッと斜面が崩れて道が無くなったのです。それで、その上の斜面の薮を切り開いて道を作ったけれど、次の年また崩れた。やってもやってもどんどん崩れていくものですから、対岸の尾根に雲切新道という全く新しい道を作りました。

 国立公園というのはいろいろ規制がありますが、この辺りは特別保護区といって草木一本採ってはなりませんと言われる一番厳しい区域です。ちなみに、黒部ダムも国立公園内にありますよね。でも、あそこは第二種といって基本的には国立公園内だけれど許認可の申請を出して書類が整っておれば、環境省もだめと言えない場所です。このように非常に緩い所と厳しい所とあるのですけれど、その特別保護区に新しく道切り開いてしまいました。

 5年前の春に作ったのですが、自然公園法という法律は昭和30年代に出来上がったそうですけれど、環境省がハンコ押して特別保護区に道つけてもいいよと言ってくれたのは、初めてだそうです。元々そのルートは、時期によってはグザグザに崩れた雪渓や、雪渓の残骸のブロックなんかでズタズタになった所を迂回しながら高巻き道に入ったりする非常に危険な場所だったのですね。小屋から大体普通に歩いて1時間半ぐらいの場所ですけれど、10日間で7件も事故があった年もありました。そのたびに毎日毎日走っておりました。「いくら民間救助隊員といっても、そりゃちょっとあんまりちゃうか」ということで「道の欠陥なんだから、道作らして」と申請を出しましたが、県庁や所管の環境省の職員も、霞が関で絶対却下されるだろうなと言いながら、環境省に書類を出したら通っちゃったのです。それなら作らしてもらおうということで、私らで道を作りました。

 せっかく新しい道が出来上がっているのに、昔の旧道を行って事故にあった人もいます。雪渓の手前から薮に入ると旧道に出れるのですが、それを知っている人で近道しようと横着したばかりに石の下敷きになったのです。この辺りはガラガラした石が谷底に一杯あります。ガラガラした石というのは新しい落石で不安定です。石に手をかけて乗っ越そうとしたら石が転がってきて足のすねが下敷きになった。次の日の朝ヘリに乗せたのですけれど、右足の膝から下切断という非常にかわいそうな事故でした。山に慣れておられる人であれば「あれ尖った石やな」と思ったらそれには絶対近寄らないと思います。あまり山を知らない人は横着しない方がいいということでね。

 変わった仕事と言えば、送電線の鉄塔のガイシをボッカしました。今はガイシの交換はヘリコプターでブーンと持っていってポンと置いていくけれど、黒部という所は山が急でしょ。ヘリコプターが近づけないから、僕たちに交換手伝ってくれと言ってきました。ガイシは腐るものじゃないけれど50年に1回交換するそうです。1ケースで30s強、2ケースで60から70s近くあります。欅平から先ほどの水平道をケース2つ担いで鉄塔の根元まで行って、帰りに古いやつまた担いで下ろす。1つの鉄塔に68ケース、10基分680ケース、交換分の同数です。毎日毎日、ばかみたいに皆でボッカしていました。

ガイシボッカする松沢君 ガイシを交換する鉄塔上の作業員

 いいメンバーが集まってくれたのです。この写真の男は、スキーをやっておられる方は名前聞いたことがあるかもしれませんが、全日本のデモンストレーターをずっとやっていた松沢君です。スキーの名手で、今スキー学校の校長をやっていますけれど、昔ステンマルクというスウェーデンの回転競技の神様がおられましたが、あの人とオーストリーで一緒に滑っている大変な男なのです。まあ、冬はスキー学校行ってますが夏はガイドやったり暇な時は山の道作りに手伝いに来てくれたりとかしているのです。

 ボッカを毎日毎日、1か月間やっていましたが、バカみたいに大変な思いをしましたけど、この写真は、ガイシの交換作業をしている業者さんですが、私達から見たら、あんな高い所で鉄塔の先で跨って交換している方がよっぽどバカじゃないかと思いますが、この人たちはこの人たちで、私達を指さして「あいつらばかじゃねえの、2ケースも担いで」って、私達は私達で指さして「ばかじゃねえの、あんな高いとこで」ということです。いずれにしろ、普通では出来ない仕事でした。

 先ほどから言っている十字峡なのですけれど、西から剣沢、東から棒小屋沢が合流いています。剣沢はあの有名な剣大滝、幻の大滝と言われているのがこの上流にあります。言ってみれば剣岳の裏側の水を全部集めている沢です。棒小屋沢は鹿島槍とか爺ヶ岳とかあの辺からの水を集めている沢ですけれど、昔は棒小屋沢の水はもっと多かったのですよ。何故少なくなったかというと、この上で関西電力さんがちょっと水を抜いて黒四発電所のトンネルに持っていってるのですよね。それで昔の写真と見比べるとちょっと迫力ない。剣沢は、水がそのままありますので大変な水量です。出合いの上にちょっとした滝があり、滝の真上に吊り橋がかかっていますが、まあ水の音と水の振動は凄いですね。

 何故十字峡の話を出したかと言ったら、ニュースになっていますが、10月7日に黒部ダムからうちに来る下の廊下の道が、十字峡から歩いて10分くらいの所で崩れました。そこは川底まで6070mぐらいあります。上がまた30mぐらいあるのですけれど、体育の日の3連休の前日に山の斜面がガサッと崩れてなくなりました。それで今通行止めとなっており、今年は早めに小屋の営業を終了しました。

10月7日崩落のため歩道 が無くなっている

 黒部ダムを震源とする地震が5日の晩と6日の晩夜7時過ぎに2晩続けてありました。7日の日に余震があった。私自身は外へ出ていたのですがまったく感じませんでしたけども、本震で揺らされた後にちょっとした余震でガサッと落ちたようです。

 下界の方では、どうやって復旧すればいいかと大騒ぎになっていたのですけれど、私らはもともと先ほどから紹介しているような仕事をしております。地震がおさまり、その後大雨が1回降りました。さらに2日空けて「そろそろ大丈夫やろ、見てきたれ」と行って見て来ました。実際どうにも歩けない距離は、幅が15m程でした。先ほどの日電歩道の話を話したように、昔の方式でちょっと岩を削ってアンカー打って手摺の針金を沿わせて丸太をダンダンと並べていけばすぐ直せます。

 そういった場所は、実際うちとこから欅平まで行く間にいくらもあります。高さもこんな程度じゃありません。本当に200mぐらいあるのじゃなかろうかという所にも道がついてます。黒部という所はこういったことが次々と起こる所でございます、そういった所を歩かねばうちまで届かないので、阿曽原温泉は「日本一危険な温泉」と、とあるバラェテイ番組でめでたく認定されております。

 私の山小屋は、普通の登山者が歩けるようになるのが7月の中下旬からです。それから下の廊下が歩けなくなる10月一杯で営業を止めますから、大体百日なのです。その間忙しい日もあれば暇な時もありますけれど、全く商売にならなかった年や仕事出来なかった年が何回もあります。先ほど言った平成7年7月11日の大洪水では、トロッコ列車の線路の下の斜面が全部崩壊して復旧させるのに1年かかりました。鐘釣山の落石で鉄橋が壊れて復旧させるのにまた丸1年。それから、平成8年は雪が多いだけだったのですけれど、そのおかげでその年は黒部ダムからうちまで誰一人歩けませんでした。

 私の小屋は変な小屋です。普通、山小屋は夏忙しいでしょう。うちとこは違うのです。うちとこは秋、秋だけの小屋みたいなものです。下の廊下は大体9月の下旬から10月一杯歩けるのですけれど、その時に下の廊下に来るお客さんがうちとこの小屋に来る。お客さんの6割5分は下の廊下の10月だけです。9月の末から10月一杯の1カ月強、中でも体育の日の3連休に満員になっちゃいます。今年なら8、9、10日ですね。

 うちとこはちっちゃい小屋で、客室だけだと50人で定員ですが、その時は100人ぐらいずつの予約が入ります。それで変なシステム採っています。何故かというと、その日にばかり集中して夏はガラガラ。12畳半の部屋が4つあるけれど、3人しかお客さんいないといった日ばかりで、秋だけ、特に3連休はもうメチャメチャ人が来ます。それである程度のところで予約を切らないとどうにもならないので、1畳に2人客室へ入ってもらって予約を一旦切ります。それでも、知らずに来る人とかバスの切符取っちゃったからどうしても来るよという人とかがいるのです。そういう飛び込みさんには食堂とかを空けて寝てもらうのです。だからといって、早くから予約を入れてる人は1畳に1人で飛び込みさんは1畳に3人というわけにもいきませんので、止むに止まれずそういう形にしています。

 皆さん、覚えておいてほしいのですが、「どんなとこでもいいです。庇さえあれば」とか「慣れてますから」とか言って来られても山小屋は対応出来ない時があります。平成9年の10月9日、飛び込みさんが99人来られました。「勘弁してくれ」です。私らの寝てる部屋も全部解放して、私ら厨房の床で寝ましたね。それにしたって収容しきれない。50人定員の小屋で218人です。ですから混みそうな時は早めに予約入れる。そして「小屋いっぱいやよ」と言われたら「慣れてますから」とか言わずに「はい、なら日変えようかな」とかして下さい。
 そう言っても200人を超えたの19年間でその日1日だけです。何故かというと、先ほど言ったように平成7年はトロッコ列車が止まって1年間仕事できずでした。平成8年は下の廊下が大雪で全く通れない。繰り越し繰り越しの人に加えて元々9年の10月にそこを狙っていた人がいて、体育の日の3連休の中日がえらいことになったのです。

 そんな日ばかりなら私は10日間で仕事止めますけれど、それ以降150人を超えるようなことは殆どありません。若干はありますけれど、「えらい目にあった」といううわさがうわさを呼んで、最近は飛込みさんが減ってきています。

 私今日何しに来たか、というと、この看板を読んでもらうと分かります。看板には「利用できるように整備はしますが雨や風による落石や落木を防ぐことはできません。黒部を抑え込むことは人間には不可能です。落木等の危険はついてまわることを理解したうえ立ち入ってください。怖いと思ったらここで引き返してください」と書いてあるのです。どこにこれが立っているかと言うと、トロッコ列車の終点の欅平にあります。
 そこから奥に祖母谷温泉という所があります。祖母谷温泉から二股に登山道が分かれて唐松岳と白馬岳へ至る登山道があります。実は、祖母谷温泉のあたりで国土交通省の砂防堰堤の工事をずっと続けていました。もともと登山道しかなかった所に砂防堰堤の工事をするということで、昔の登山道をつぶして自動車が通れるような道路を作りました。

 そして国土交通省が「砂防堰堤の工事を撤退する。道を現状復元して埋めもどしてトンネルも塞いで通れなくしようか」とか言い始めたのです。「ちょっと待ってよ」です。そこで営業している人がいますし、観光地として環境省とか県は公衆トイレやキャンプ場も整備している。「大体もともと登山道のあったとこあんた潰したんじゃないか」という話ですったもんだやってましたけれど、なかなか言うこと聞いてくれません。

 何故かと言うと、何年か前に奥入瀬渓谷で遊歩道の上から枯れた木が道に落ちてきて、そこに訪れてた人にぶつかって裁判になりました。結局、管理責任を問われて国が負けて、2億円だったかを払う羽目になりました。また、明石の砂浜で女の子が海岸で遊んでいたら防波堤の根っこに砂がきちっと埋めてなくて、砂の中に埋もれてしまって国土交通省が管理責任を問われた事故もありました。こんな石がいつ降ってくるかわからん所を管理してて「もし怪我人が出たら私ら裁判訴えられる、かなわん」とか言って「何人も通ってはなりません」というようになったのです。

 一昨年から道を通す通す訳にゆかないで、すったもんだやっていて結局私らで「欅平・祖母谷間道路管理組合」というものを作って、先に紹介した看板を立てたのです。書いてあるように看板としてはありえないような内容ですけれど、これも私が考えた作文です。
 何を言いたいかというと、山に入るということはそういったリスクが絶対あるということをいつも覚えていて下さい。リスクはどんな稜線の登山道でもあります。剱岳とかを登ればハシゴや鎖場はどこの登山道へ行ってもあります。山小屋の皆さん方が登山道を一所懸命かまっておられるのは本当にご苦労なことだと思っていますけれど、人の歩いていない時に落石が降って来てハシゴのアンカーがぐらついているかもしれない。高速道路じゃないですから24時間パトロールしてるわけにもいきません。さっき言いましたように、臭いとか音とかに気を配り、自分の身は自分で守るのが大原則だと思います。そういったことをまず皆さんに分かってもらった上で山に入ってもらえれば、そういった悲しい事故も減るだろうし、あとからすったもんだのいさかいもちょっとは減るのじゃないかと思います。

 山というのは、やはり少しずつ手を加えなければならないのです。私ら木道も作っていますけれど、木道が無かったらお花畑はどんどん小さくなってしまいます。水がどんどん流れて、荒れた所がどんどん川になっていく。やはり整備の予算はつけてもらわなければなりません。誰がやるかという問題もありますけれど、誰が管理するかというのは今はどこの登山道もはっきりしたものがありません。作るのは環境省が一元化するとやっと言い始めましたけれど、あとの維持管理費がどこから出るか全く決まっていません。

 地元の行政さんがちょっとお金出してくれたりするのですけれど、管理責任ばかり言われると行政もちょっと後ずさりしてしまいます。「ああ、今ちょっと手加えればこれ以上は浸食しないだろうし、良い道残してゆけるのにな」と思っても「滑って怪我して、訴えられるようなことあったら困るし」とか、「あそこの鎖張り替えしてやったら良いのにな」と思っても「もしその鎖のおかげで怪我人出たらどうするか」というようなことです。

 あまり管理責任を言われると役所が後ろ向きになってしまい、なかなか整備が立ちゆかなくなってしまうと思います。ドカーンと崩れたようなことは別にして、登山道は所詮人間が歩いてちょっとずつ悪くなっていくのです。だから、ちょっとした所ですぐ手を加えてやれば、大きな予算をかけなくても侵食もすぐ食い止められるのです。それで、ちょこちょことやっていけばいいのですけれど、「公共事業は何百万円以上にならんと国から補助金がもらえん」ということです。「そんなたくさんの金いらんがな、ちょっとでいいから金回してよっ」て言うんですけれど、なかなかそういった金の使い方もしてくれません。

 皆さんには、時にはそういったリスクがあるということを考えて山に入って来ていただければと思います。そうしたら、ただ「ああ、きれいやな」と言ってないで「この山は何であんな形にできてる」「他の山と色違うで」と思って下さい。さっき言った石灰岩の山は不思議なのですよ。あの山にだけサンショの木がなってます。ヤマシャクヤクがあります。他の山へ行ってもあんまり無いけれど、石灰岩の山に行くと一杯あります。

 盆栽やっておられる方は知ってると思うけれど、シンパクという松の木みたいなちょっとぺちゃっとした青々した木があります。これが盆栽屋さんに行くとめちゃめちゃ高いみたいですね。私は全然興味がないものですから斜面に沢山散らばっていたんですけど、もったいないことしました。石灰岩の山で糸魚川の明星山というところも同じですが、そこは管理組合を作ってシンパクの木を取りに来させないように地元の人たちが大事に守っています。

 そういうようなことで「何でやろ、何でこんなキナ臭いにおいするんやろ」「何でこの道できたんやろ」とか思って下さい。下の廊下という所はありえない所に道が作らています。歴史とかをいろいろ勉強してから入って来ていただければ、その時点からもう登山というのは始まっていると思います。

 地図もそうですね。登山計画を作る時には地図なんかを勉強するけれど、最近は等高線を読めない人もいます。三角点と尾根筋だけ書いてある略図を「これ地図です」と言って、そういった物を持って実際入って来る人がおられます。それじゃなしに、等高線が詰まってる所であれば「ああ、きつい登りがあるんかな、下りがあるんかな」尾根ばかりなら「水場無いんやろな」ということが分かります。基礎から叩き込まれている人たちなら皆分かっているのだけれど、もうちょっと勉強して登ることを考えていただきたいと思います。

 いい例が、北海道のトムラウシでのツアーの大量遭難事故。あれはツアー会社の弊害で、まあ可哀そうですよね。「せっかく高い金出しとるんやから、ちゃんと連れて行ってよ」と言いたいだろうけれど、強嵐の中「私は行けるやろうか」と冷静になって考えたら止めようとて言う人もいてもよかったのじゃないかなと思います。連れていったガイドも悪いけど、ついてった人もついてった人かな、と私は個人的には思っています。

 そういったことで、山入るにはいろんなリスクがあるということです。だから景色見て「わーすごい、わーきれい」というだけではなく、勉強してこそ本当の山の醍醐味って味わえるんじゃないですか。そのためには、ちょっと勉強してから山入っていただけたらいいなと思っている今日この頃です。そろそろ時間になってきたので、こんなものでどうでしょうか。あと何か質問などあればと思います。有難うございました。(拍手)

此処から質問・回答

質問:立山真砂岳の事故はどう思われますか?

平成3年の真砂岳の事故ですか、あんな平らな尾根で一度に8人、びっくりですよ、私最初のヘリで現場に行ってますが、異様な光景でしたね。どうしてこんな平らな所でごろごろと。その時亡くなった方のカッパ、多くの方が駅で売っているビニールガッパでした。生き残った人はゴアテックスでした。やはりいい物を買わないとだめだなと、笑いごとじゃなしに思いました。大体、その時期にそんなカッパを持って山に入るのがおかしいのです。

立山の頂上へ行った時にはもう雪がちらちら降ってきている。そこで帰らないといかんのです。計画そのままに強行したばかりにああいった惨劇になって、ほんと可哀そうでした。あの日は本当に寒かったです。場所も風の抜ける尾根で、例えば5月の連休に行ってもあの稜線は石ころが見えているのです。ということは積雪が無い、積雪が無いということは風が強いということです。尾根の裏側、黒部川のほうの谷にちょっと入れば一杯ハイマツがあるのです。残雪もいっぱい残る所でハイマツの中にもぐっていれば吹きさらしにならなかったと思います。

そういったことを考えて行動してもらえれば、事故は絶対減ります。事故の99%は自分のミス、自分のミスなのです。滑った転んだというのは、疲れてきて「あの石に足を置いたら危なそうやな、でもいいや」と置くからこうなる。まったくの不可抗力というのは本当に少ないです。これは私の経験則です。疲れないようにいいリーダーのもとで登山することを心掛けて、事故防止でよろしくお願いします。

質問:下の廊下の道が壊れたと言われましたが、来年の小屋の計画はどのように。

 関西電力が道を直すのですけれど、関電がやる気になるかならないかはまだはっきり表明していません。というのは、壊れたのはここだけじゃないのです。黒部ダムから上流の奥黒部ヒュッテの方もやらています。黒部ダムのダムサイトの道も地震でひどいことになっています。ダム湖の直下で地震が一杯ありました。ただ7日以降は、正確に言うと11日以降は激減しています、余震のデータ取って調べてもらいましたけれど、本当に全くと言っていいほど減ってきてますので、このまま収まってくれて整備にかかればすぐ出来ます。先ほどの崩落地点、私らに言わせれば5人で4日でできます。請け負う土建屋さんはそれじゃお金にならないから10人で5日とかいった形になると思うけれど、私ら実際に作業やっていますから、ああいった作業はそれぐらいでできるという気はしています。それと来年の雪の量ですね。

質問:阿曽原小屋の写真ありませんか

あまりにもオンボロ過ぎて恥ずかしくて、今日持って来なかったのです。古いプレハブでしょ。新しいプレハブを一度入れたことがあるのですけれど、最近のプレハブは軽量化が進んで鉄骨はペラペラなのですよ。冬の間平らな所に寝かしておくのだけれど、雪でギュッと潰されるとフニャッと曲がって、もうパネルが入らない。昔のやつは太くて分厚いです。だから昔のを使っているのですけれど、規格が今のとちょっと違うのでパネルを交換したくても新しいのが入らないのですね。手作りだと大変な金かかるので、今悩んでいます。

トイレはいいですよ。日本初のバクテリアを使ったユニット式のです。平成10年に愛知県の業者が作ったのを入れました、平成8年7年と借金しなければならないくらい商売にもなっていなかったのに、9年に一晩に200人も来たら「もうかったじゃん」いう気になって、ポンとトイレ買いました。千何百万しましたけれど、日本初というのでCBCテレビが愛知からヘリを飛ばして小屋までトイレを持ってくる映像も撮ってくれました。その半年後に、環境省が新しい方式のトイレ入れたら半分補助金出しますよ、富山県が残りの半分出しますよ、となりました。けれど、私は半年しかずれてないのに補助金はもらえませんでした。

私を普通の山小屋のおやじなんです。うちに帰ればトイレ掃除もしますし、零細企業ですので茶碗も洗いますし食事も作ります。山小屋というのは基本何でも屋です。小屋を作るので大工さんもせんならんし配線もせんならんし草刈りは当然、何でも屋です。ただ、少し違うのが、夏は他の山域は忙しいけど、うちとこは秋が忙しい。秋に暇になったやつらが、ワチャワチャと集まって来てくれて色々な作業をやって、そいつらと飲みながらいろんな見聞きしてきた事を肴に考えているだけです。

講演者を囲んで

                         平成23年11月11日 講演