平成25年度 山岳講演会

  日時 ; 平成25年11月7日(木) 午後6時30分より
  場所 ; 岐阜市・長良川スポーツプラザ 大会議室
  演題 ; 「山と播隆 槍ヶ岳を開山した念仏行者・播隆の生涯」
  講師 ; 黒野こうき氏(ネットワーク播隆代表)地方史研究家

講演中の黒野こうき氏 播隆上人の資料画像からコピー


講演会会場の様子
H25年11月7日 講師を囲んで役員と会員の記念写真 

 講演は130名程の参加があり、熱心に聴衆頂き盛大であった。
 (内容は講師の黒野氏の資料から一部抜粋して記した)
 播隆は高僧や名僧ではなく、民衆と共に生きた聖の一人であった。
 また槍ヶ岳開山について目的は登頂でなく、登山道を整備して念仏講の人々を山頂へ導いた。
 播隆の生涯
  播隆は天明6年(1786)今の富山県上新川郡大山町河内に生まれた。生家は代々浄土真宗
 の道場をつとめる家柄であった。そこは山深い山村の集落で現在は廃村になっている。
 二男一女の次男で有った播隆は十代のある時期に家を出、生涯一度も故郷の土は踏まなかっ
 た。
  播隆が仏門に帰依し出家した動機は定かでないが、播隆が生家に宛てた手紙などから上方
 (京都)に出かけ浄土真宗に出家しようとしたが出来ず。縁あって日蓮宗に入って一年あまり修
 行、しかし元来が念仏宗門のためになじめずそこを出た。
 その後、浄土宗に入門し念仏修行の身になった。
  太田宿の脇本陣林家にのこる古文書の中にある「播隆聖人由緒書」によれば、播隆19歳のと
 きに尾張の尋盛寺に弟子入りし、29歳の時に江戸において正式な僧になったとある。

 山岳修行の道
  当時の宗門内の現状は寺院生活に播隆は求めるものはなく、一介の念仏行者として山岳修行
 の道を歩み始める。残されている史料から、京都一念寺の上人のもとである時期修行した。
  その足跡は南宮山山麓、伊吹山禅定、笠ヶ岳再興と休むことなく続き、飛騨の上宝村「杓子の
 岩窟」で修行、文政6年(1823)に笠ヶ岳再興をなす。
 播隆の足跡をたどるとき、そこには求道者としての厳しい姿だけでない、もう一つの姿、布教者と
 して播隆が現れる。当時の社会に地下水のように浸透していた念仏、そこに現れた念仏を体現
 したような播隆、各地の寺院は宗旨宗派をこえて播隆を招請、各地で念仏講が結ばれ、それは
 寺の活性化となった。
  播隆が修行したといわれる福井県丸岡町の護城山、美濃市の片知山、各務ヶ原市の伊木山、
 関市の迫間山、八百津町の三鉢洞、七宗町東ヶ、松本市の女鳥羽の滝などがある。播隆の生涯
 はまさに修行の連続であった。(念仏行者)

 笠ヶ岳再興から槍ヶ岳開山へ
  信州の岩岡伴次郎、中田又重らによって飛州新道が進められていた最中に播隆の笠ヶ岳再興
 が行われた。その時播隆は槍ヶ岳を見て槍ヶ岳開山を決めたのでしょう。
 笠ヶ岳再興の後、播隆は伊吹山禅定をなし、播隆が信州に姿を見せたのは1826年、中田又重の
 案内によって第一回目の槍ヶ岳登山を行った。この時飛州新道の一部を利用し、苦労のすえ初
 登頂、その二年後の1828年に二回目の槍ヶ岳登山の時に念願であった阿弥陀仏ほか二体を
 安置し、ここに槍ヶ岳開山を成就した。播隆43歳で有った。
  なお槍ヶ岳開山の時に播隆は穂高岳に名号碑を安置しており、笠ヶ岳、槍ヶ岳、穂高岳と播隆
 の足跡は日本山岳史上不滅のものとなった。
  播隆はその後1833年三回目、翌年四回目、さらに翌年五回目の登って行いる。登山者の安全
 をはかるために山頂にワラで作られた「善の綱」と名付られた綱がかけられたが、ワラを鉄鎖にか
 えるために各地で喜捨浄財が集められ、信州に鉄鎖が運び込まれた。
  その後1836年の天保飢饉の最たる年、飢饉の原因は槍ヶ岳の山頂を汚したからだとの風評
 が強まり、松本藩によって鉄鎖は差し押さえられてしまう。
  1840年飢饉も下火になり鉄鎖が許可され、信者らの手によって再度「善の綱」が槍ヶ岳の山
 頂にかけられた。しかしこの時播隆は病に伏しており、病床で大願成就の報を聞いた。
  小康を得た播隆は信州をたって中山道を美濃へと向かったが、天保11年10月21日(1840)
 美濃国中山道太田宿の脇本陣・林市左衛門方で亡くなった。
  行年55歳「行状記」によると西方へ向かって端座合掌し念仏の声と共に眠るごとうに永眠、
 まさに大往生であったという。     詳細は講演会集を参照ください  リンク