山岳講演会

        [演 題] ナイロンザイル事件

        [講  師]     

                       

 
            ▲講演中の尾上氏

 皆さんこんばんは。ただ今は大変過分な紹介をいただき、恐縮に存じます。今日は岐阜支部恒例の行事であります山岳講演会にお招きいただきました。この山岳講演会、今回で34回だそうで、今や日本山岳会の各支部の行事の中でも大変権のある名物行事として有名です。その名物行事に講師としてお招きいただけたことを、大変光栄に思っています。これから演題にありますナイロンザイル事件のお話をさせていただきますが、この事件が起きたのは昭和30年で私はまだ中学生ですから、これからお話しする登場人物の方々とは当時直接面識はなかったわけです。その私がなぜナイロンザイル事件を語るようになったかを、先ずお話しさせていただきます。
 プライベートな話ですが、私の実家は名古屋です。昭和41年、大学山岳部を卒業して実家に帰ってきた直後に、東海支部から呼び出しがありました。山岳部の先輩でJACの重鎮であるMさんが「尾上というのが卒業して名古屋に帰るから、すぐに東海支部に入れてこき使いなさい」という指令があったわけで、帰ったその日に「とにかく出てこい」という電話でした。以来40年になりますが、東海支部にどっぷり浸かっておりまして、いまだに足が抜けない状況でございます。
 日本山岳会の東海支部が設立されたのは、ナイロンザイル事件のきっかけとなる遭難事故が起きた6年後の昭和
36年です。その設立に奔走された張本人こそ、今日の話の主人公である石岡繁雄さんです。東海支部に入って石岡先生に初めてお会いした時「この方が例のナイロンザイル事件で有名な石岡先生か」と思いました。その後も今日もここにおいでの東海支部の重鎮である中世古隆司さんとか原真さんに連れられて、名古屋大学のすぐ近くにある石岡先生のご自宅へしばしばお邪魔するのですが、そうすると、最後には必ずナイロンザイル事件の話になり、夜中まで先生も熱が入って話が続くのです。そんなことで私と石岡先生、そしてナイロンザイル事件との接点ができました。 ついでに申し上げますと、石岡先生と一緒に東海支部を設立された方に高橋達夫さんという方がおられます。通称パクさんです。私が入った頃は大先輩でいらっしゃって、その後、岐阜支部が設立されるということで岐阜支部に移られ、その設立に大変ご尽力をされた方です。人の縁とは面白いもので、彼の息子さん、高橋玲司君が今東海支部の青年部の部長として大活躍をしておられます。
 余談ですが、先日玲司君が私に「今、私、岐阜支部にヘッドハンティングされそうなんですよ。どうしたらいいですか」と言うから「冗談じゃないよ。君はこれから東海支部を担う重鎮だから岐阜支部には出さないよ」と言っているのです。今日も高橋君は来ていると思いますが、何処にいますか? いたら立って皆さんにご挨拶して下さい。今日ここへ来ているということは大分その気になっているのじゃないかと、私は心配をしています。というわけで、岐阜支部と東海支部とは色々ご縁があるわけでございます。
 さて、主人公の石岡先生と年齢がずいぶん離れているし、直接ナイロンザイル事件に関わっていない私が、ナイロンザイル事件を語るようになったいきさつですが、3年前の2005年、ナイロンザイル事件のもとになった遭難事故の50年目に当たるということで、NHKが井上靖さんの書かれた「氷壁」をリメイクしたドラマを作るということを発表しました。これが大変な評判になりまして、にわかにナイロンザイル事件が再び人々の口の端に上るようになったのです。
 そんな時に、名古屋にありますある大きな山岳団体から、「この事件の全容は余り知られていないので、是非とも語ってほしい。石岡先生は東海支部の設立者なので、東海支部にお願いしたい」という依頼が私にありました。誰にお願いしようかと考えまして、やはり石岡先生にやってもらうのが一番いいということでお願いしました。ところが、先生はお足が悪くて「名古屋へ行ってしゃべるのは勘弁してくれ」と言われましたので、二番目は石原國利さんです。この方は石岡先生と共に東海支部を立ち上げた方で、遭難事故のご当人です。石原さんならと思ったのですが九州にお住まいで、九州からそのためだけに来ていただくのも申し訳ないと思い諦めました。三番目に候補に挙げたのが、今日ここに来ていただいている東海支部の生字引である中世古隆司さんです。そう思って相談したら「お前は脳卒中で半分倒れかかっている俺にそんなことをさせるのか」と叱られてしまいました。日は迫ってくるので「さあ、困った」とその山岳団体の長の方に申し上げたら「君やってくれよ、君でいいよ」ということになってしまいました。
 私もずいぶん楽天家なものですから「じゃあやらせてもらおう」となったわけです。

 石岡先生や石原さん、中世古さん達と年中このナイロンザイル事件を論議していて、大体筋書きは分かっているということで引き受けたのですが、喋る以上はもう一度勉強しなおそうと思いました。石岡先生の所へ行って再度生の声を聞いたり、石原さんに電話して分からないことを聞いたり、あるいはこれに関する膨大な文献を片っ端から読みあさりました。その結果「しまった。これは引き受けなければよかった。お断りしようかな」と後悔しました。
 なぜ悔やんだかというと、もう一度勉強し直してつくづく思ったことは、この事件は実に重いのです。実に重い。私のような楽天家にはこういう話は向かない。私は漫才か駄洒落をとばしていたほうが性に合ってるし得意であって、こういう重いのは性格に合わないのです。この事件の奥には、心の葛藤や心の奥底に潜む醜悪な人間性、社会の当時の時代背景、企業のエゴイズムや利害関係などが複雑に絡み合っているのです。調べれば調べるほどまことに重いし厳しい。
 困ったなぁと思ったのですが、資料を片っ端から読み漁っていくうちに一つ気付いたのです。この事件は誰かが後々まで語り継がなければならない、風化させてはならないということです。現にこの事件を詳しく知る人たちが、どんどんお亡くなりになる。ご存知のように石岡先生も一昨年お亡くなりになりました。事件がどんどん風化していく。お年寄りがよく戦争体験を話されるように、私がナイロンザイル事件の語り部にならなくては、と心に決めました。

 このようないきさつでありまして、今日お声掛けいただいたのもその延長線上にあると思い、私も喜んでこの席にお邪魔しました。ずいぶん前置きが長くなって、これだけで10分以上たって申し訳ありません。なぜ私がこの場に立っているかということは、以上で大体ご理解をいただけたものと理解をしております。

 前置きはこの程度にして、先ほど、このナイロンザイル事件の引き金となったのは昭和30年の事故と申し上げました。その事故というのは、鈴鹿に岩稜会という山岳会がありまして、その会の会長が石岡繁雄さんなのです。この山岳会の大学生3人が、当時冬季にまだ誰も登っていなかった前穂高東壁のAフェースから頂上へ抜けるルートに挑戦するために、昭和30年の正月に出かけました。メンバーは若山五朗さん、石原國利さん、沢田栄介さんの3人です。
 途中経過は省きまして、1月1日に壁に取り付いたのですが1日では登りきれなかった。それで前穂の頂上直下40mくらいの所でビバークして、次の日の朝再度登るわけです。その最中に、トップを登っていた若山五朗さんがスリップしました。この様子はいろいろな本にも書いてあるし石原さんにも直接聞いたのですが、ほんのスリップでずり落ちたような感じだというのです。ズズッとずったような形で50pくらい落ちた程度だというのですけれど、その時結んでいたナイロンザイルがブッツリ切れてしまって、そのまま若山さんは奥又白に墜落して行方不明になってしまう、というのが前穂東壁の岩稜会の遭難事故です。若山五朗さんは、その年の7月31日に奥又のD沢で遺体となって発見されています。
 今言いましたように、スリップは僅か
50p程度です。セカンドで確保していた石原國利さんは、落ちた瞬間に当然ショックが来るぞということで身構えたのですが、何の抵抗もなくザイルは切れてしまって、ショックを全然感じなかったのだそうです。つまり、ナイロンザイルはあっさり切れてしまったわけです。

 昭和30年頃は、まだナイロンザイルはほとんど使われていませんでした。この中にもたくさん経験された方がおられると思いますが、当時は麻ザイルでした。マニラ麻を編んだ荷造りロープを頑丈にしたような物です。私たちの頃は端境期で、夏は麻ザイル、冬はナイロンザイルを使っていましたが、夏でも雨に降られて雨が染み込んだ麻ザイルは本当に始末が悪かった。カチカチに固まり棒のようになってしまう。これを真冬に使おうものなら、それこそ凍りついて、先輩たちの話を聞いて「そんな物で本当に登っていたんですか」と思ったくらい、とにかく始末の悪い代物だったのです。
 ナイロンロープはもともとアメリカ軍の落下傘の紐に使ったのがスタートだそうですが、当時の登山界にとっては、ナイロンザイルの出現は革命的だったのです。さらに、発売したメーカー東京製綱のうたい文句は「麻11oに対してナイロン8oの細いロープでも3倍の強度がある」でした。石岡先生はさっそく飛びついて、名古屋のスポーツ用品店まで行って8oのナイロンザイルを買い入れたのです。オレンジ色の40mのを2本買って、その1本を「持って行け、これはすごいぞ」と若山パーテーに渡したのです。そして、それがあっさり切れてしまったわけです。
 その切れた状況を石原さんから聞いて、石岡先生には単純な疑問が湧いたのです。だって、8oで麻より3倍強いといわれたザイルが、何のショックもなくあっさり切れてしまったのですから。それも何
10mも滑落して切れたのなら別だけれど、確かにザイルを岩角にかけながら登っていたということはあるにしても、50p足らずの滑落で何のショックもなく切れるのはどう考えてもおかしい。これはきっと岩角に弱いナイロンザイルの欠陥という特徴があるのではないか、という強い疑問を石岡先生は抱くわけです。ナイロンザイルの欠陥として「岩角欠陥」という言葉がその後生まれたきっかけです。
 石岡先生は名古屋大学の工学部電気科をご卒業なので、さっそく母校名古屋大学で簡単な実験装置を作りました。そしてその状況を再現させて実験してみたところ、50pの高さから重さ60sくらいの石をちょっと落としただけで、プツンプツンと8oのナイロンザイルが切れるのです。これは間違いなくナイロンザイルの岩角欠陥だということを確信するわけです。 石岡先生がこのことにどうしてそんなに執念を燃やしたかというと、実は墜落した若山五朗さんは実の弟なのです。先生は養子に行かれたために石岡姓になりましたが、もともと若山姓だったのです。自分の実弟を自分が買い与えたナイロンザイルでいわば殺してしまった、というものすごい罪悪感があったのだと思います。それもあって、ナイロンザイルに疑問を抱いて実験をした。その結果思った通りだったので、ザイルを編んでいる東京製綱と繊維を作っている当時の東洋レーヨンに対して「ナイロンザイルは岩角に非常に弱い」ということをアピールしました。
 ところが、それに対してナイロンザイルは強いという神話がまかり通っていたものですから、東京製綱も東洋レーヨンもこれを否定してしまうわけです。さらに一部の登山家の中には「あれは結び目がほどけたんじゃないか」「アイゼンでザイルを踏んで傷つけたんじゃないか」というような中傷論まで飛び出してきます。ナイロンザイルが強いという神話に対し意見が分かれることになり、ここに初めて「前穂東壁遭難事故」から「ナイロンザイル事件」に変わり、大きく世間にクローズアップされていくわけであります。

 ここでちょっと話を変えて、石岡先生のプロフィールを簡単に紹介しますと、先生は実はアメリカに生まれました。そして先ほど申し上げましたように、一昨年の8月にお亡くなりになりました。享年
88歳で天寿を全うされたのですが、その2年前に愛妻の敏子さんを亡くされています。お子さんはお嬢さん2人で、今もご健在でいらっしゃいます。
 アメリカで生まれて、日本へ帰ってきて入った学校が旧制の八高、そして名古屋大学の工学部へ進学されています。山その八高の山岳部で始められたのですが、八高時代に下宿をされた家が石岡家でした。その一人娘の敏子さんと大恋愛をする。一人娘ですから石岡家では「家に養子に入るなら認めよう」ということで、若山姓から石岡姓に変えられて敏子さんと結婚されました。それで亡くなられた若山五朗さんとは名前が違うというわけです。                  

      

            ▲講演会場風景

 私が石岡先生に聞いた中で面白い話があります。石岡先生は名古屋大学の電気工学科を卒業して、戦時中ですから海軍技師として就職され、四日市にあります海軍の燃料工廠に配属になります。そこでは、航空機用のガソリンの製造技術の開発に携わるのです。戦争も末期ですから、ガソリンが入ってこない。ガソリンの一滴は血の一滴ということで、何かガソリンの代用になる物はないかと研究していたのです。松根油といって松の根っ子から採った油があります。これに何万ボルトという高圧の電気を流すと、非常にオクタン価の高い航空燃料になるらしいのです。その研究を担当していたのです。ところが、B29が飛んで来て四日市も狙われそうだというので、あわてて研究設備をどこかへ疎開して守らないといかん、ということになります。
 どこへ持っていったかというと、なんと上高地へ上がる旧釜トンネルの中です。旧釜トンネルを通られた方は多いと思いますが、釜トンネルに入っていくと、途中から左の方に別の細長いトンネルがあります。その中へ四日市から全部機械を運んで研究を再開しようとした途端に終戦ということになってしまいました。結局何もならなかったのですが、釜トンネルにそういう逸話があったのには、山仲間としても縁のある話だなと思います。
 終戦後はご実家の鈴鹿で旧制の神戸中学、今の神戸高校に奉職されます。そこで山岳部を立ち上げます。主に鈴鹿の山がホームグラウンドです。その結果、卒業していくOB達が増えていき、その卒業生を統合して岩稜会という山岳会を作ります。それが冒頭申し上げました岩稜会の大学生3人が前穂の東壁で事故を起こす、というストーリーに繋がっていくわけです。

 岩稜会当時の石岡先生で一番有名な話は、屏風岩正面壁の初登攀です。石岡先生が書いた「屏風岩登攀記」をここに持って来ていますけれど、実に素晴らしい。私は何回も読みました。すごく平易な文章ですが読みごたえがあります。投げ縄を作って投げたり、木に飛びついたり、必死に登っているわけで、手に汗を握ります。この凄まじい執念が、ナイロンザイル事件の解明に賭ける執念にも繋がっているのではないか、という気がします。登山家としても大変な功績をお持ちの方です。
 もう一つのエピソードは、石岡先生のあだ名の「バッカス」です。僕らはバッカスなんて気楽に呼べませんが、岩稜会の教え子たちは先生を直かに「バッカス」と呼ぶのです。決して「石岡先生」と言わない。実に羨ましい師弟関係だなと思いました。

 私がバッカスの由来を聞いたことがありますが、2つ説がありました。1つは、バッカスというのはご存知のようにギリシャ神話に出てくる酒の神様です。先生は無類のお酒好きで、我々がお邪魔すると話が終わればとにかく大宴会になる。お亡くなりになる1年くらい前にお邪魔した時も、足が弱くなってヨタヨタされていましたが「おお、久しぶりに来た来た」と大盤振る舞いをしていただきました。その酒好きからバッカスです。もう1つは、山ばっか行って馬鹿ばっかりしているからバッカスだと言うのです。私はどう考えても前者の方ではないかと思うのですが、それくらいお酒がお好きな方でした。

 話を元に戻しまして、ナイロンザイルの岩角欠陥で遭難が起きたところに戻ります。石岡先生は執念の人です。メーカーからの反応がありませんので、マスコミを通じて岩角欠陥について追求します。とうとうその声に押されて、製造元の東京製綱と東洋レーヨンは独自に公開実験をやろうじゃないかということになったのです。それを指導したのが、当時日本山岳会関西支部長で阪大の工学部教授でいらっしゃった篠田軍治博士です。勿論、東京製綱と東洋レーヨンの要請です。
 西岡さんはこれを聞いて「これは最高の人に指導していただけることになった」と喜び、石原さんと一緒にわざわざ阪大まで出かけて行って、篠田軍治さんに会って篠田さんの見解を聞くのです。篠田さんとは「岩角欠陥であなたのいうようにザイルは切れると思うよ」という会話を、事実交わしています。

 公開実験が行われたのは、その年のゴールデンウィークの4月29日です。実験した場所が東京製綱の蒲郡工場だったので、その場所にちなんで「蒲郡実験」と呼ばれています。若山五朗さんの遺体がまだ上がらないので、連休中は捜索のために岩稜会の連中は皆山へ入ってしまい、石岡先生を含めて岩稜会のほとんどが公開実験に立ち会えませんでした。けれど、石岡さんはその実験に何の疑いもはさんではいませんでした。当然石岡先生の実験と同様、ザイルは簡単に切断するという結果が出ると思っていました。いうまでも無く、篠田さんとの会話からです。

 結果的に公開実験でナイロンザイルは切れなかったのです。そのことを石岡さんは山へ入っているからご存じない。休みの関係で山に入っていなかった岩稜会の副会長の伊藤さんが、「ナイロンザイルは切れなかった」と一面にでかでかと載った当時の中日新聞を持って、奥又白の前進キャンプへ上がって石岡先生に見せたのです。その時のことを石岡先生は鮮明に覚えていて「えっ!!」と、みるみるうちに目の前の真っ白な雪が紫色に変わっていったということです。「そんなばかなことがなぜ起きるのか、これはおかしい」と一瞬パニックになったけれど「きっと何か仕掛け、手品があるに違いない」と思った、と後で述懐されています。その時には若山五朗さんの遺体は見つからず、その憔悴感もあって余計にショックだったのでしょう。とぼとぼと鈴鹿に帰ってくるわけです。

 ところが、帰った途端、それまで大変好意的な目で見ていた人達が、急に態度が変わってしまった。急に冷たくなってしまったことをひしひしと感じられたそうです。やはり、東京製綱と東洋レーヨンという大企業、さらには関西支部長で阪大教授の工学博士という大変権威のある人のもとでやった実験なので、間違っているはずがないという印象を世間一般に与えたのでしょう。若山さんと石岡さんのお父さんはかなりご高齢だったのですけれど、新聞記事を見て石岡先生に「お前は親にまで嘘を言った。お前が五朗を殺した。勘当だ。出て行け」と激高されたそうです。順々と説くうちにお父さんもお分かりになってくれたそうですけれど、失意のうちに翌年昭和31年の12 月に結果を見るまでもなく亡くなられています。墜落から約7か月後の7月31日に、若山五朗さんの遺体をD沢で発見して回収します。ザイルがほどけたのじゃないか、アイゼンで傷つけたのじゃないかと言われていたので、慎重に遺体を確認しましたが、切断されたままのナイロンザイルは若山五朗さんの腹にきちっと結ばれていましたし、ザイルが傷ついていた形跡は全くなかったことで。「やはり正しかった」という思いが石岡先生の胸を打ちます。
  (右の写真は大町の山岳博物館に展示されているものです)

 私、ここにそのナイロンザイルを持ってきました。これは実物ですが、現場で切れたものではありません。残りの一部です。実際に若山五朗さんのお腹に巻かれていた切れたザイルは、現在、大町の山岳博物館に展示されていますので、あちらへお行きになった方は是非ご覧いただくと良いと思います。

ナイロンザイルです(尾上講師より見せて頂いた) 大町山岳博物館に展示されている実物

 先生は買った40mの2本のザイルで何回もテストをしました。たまたま私がお邪魔した時に「先生、ザイルの切れ端余ってないですか」と聞きましたら「ちょっと待て、何処かにあったような気がする」と探してきて「あったあった、これだ」と私に見せてくれたのがこれです。「まだたくさんあるんですか」とお聞きしたら「いやこれが最後だよ」ということでした。80mの最後の一部で、大変に貴重なものです。「先生、今度話しをするんで貸してくれませんか」「いいよ」とおっしゃって借りたまま返しそびれています。そのうちに先生がお亡くなりになったものですから、今さらこれをお返しするわけにはいかず、そのまま私がお預かりしているという次第です。大変貴重な財産であります。オレンジ色で径が8o。昔のナイロンロープですから撚ってあって非常に硬い。今のナイロンロープは柔軟性があって編んでありますが実際これは少々扱いにくいのです。登山ロープとしてその扱い方を考慮して製造したのではなかったのだろうと思います。 7月31日、石岡先生の一行は、若山五朗さんの遺体と切断したザイルを回収して、遺体を荼毘に付すために下りてくるのですけれど、奥又白の入口に新村橋という橋があります。そのたもとに、公開実験に立ち会った三重県岳連理事の加藤富雄さんという方が待っていました。そして、そこで加藤さんから衝撃的な発言を聞くのです。 蒲郡実験は10mほどの塔のような物を作って公開実験をしたのですけれど、夕暮までかかった実験が終わった後、加藤さんはその塔に登ってみたそうです。誰でも簡単に上がれるようになっていなかったけれど、はしごみたいなのを伝って登り、薄暗い中しげしげと見ながらいろいろ触ってみました。加藤さんは勿論山の専門家です。岩角を模した鋼鉄の90度くらいの角があったのですが、そこの角を何気なく触ってみたのだそうです。丁度ロープが当たるところです。「おかしい、意外と角が丸いな」と思ったそうです。いろいろな議論が起きて大変マスコミが騒ぐ中でしたので「ひょっとすると、角が丸かったから実験のザイルは切れなかったんじゃないか」という素朴な疑問を抱いて、とにかく石岡先生にそれを伝えたくて来たのです。
 その途端、先生は即座に「それが手品だ。それでロープが切れなかったのは100%間違いない」。ご自分で何十回もテストをやった結果、岩角をちょっと丸くしただけでナイロンザイルの強度は格段に上がることをご存じだったから「これに違いない、だから切れなかった」と確信されました。
 ここからが石岡先生のすごいところで「それならもう一度、より実際に近い実験をしよう」と、8月に岩稜会の仲間と遭難現場へ行きました。前穂の頂上から40mくらい下の墜落したと思われる地点に行き、ザイルの掛っていたと思われる箇所を克明に調べたら、岩角にナイロンロープの繊維が3か所へばりついていた岩角を発見したのです。いうまでもなく、若山さんが落ちた時に引っ掛かった岩角です。その岩角を石膏で固めて型を取って鈴鹿へ持ち帰り、それと同じような石を見つけてきて再度実験をしました。今度は自宅の庭にある大きな松の木にかけてテストをしました。結果は同じでした。高さ50pくらいでおもりをつけたロープがプツンプツンと切れました。つまり現物の岩角と同じエッジで簡単にザイルは切れることを証明したのです。

 再度マスコミを通じてこの実験結果を発表するのですが、東京製綱と東洋レーヨン、篠田軍治博士側は頑としてそのことを認めようとしません。とうとう「これは司法の場に訴えるべきだ」ということで、篠田教授を蒲郡実験のインチキにより自分たちの受けたいわれなき傷は大である、ということで名誉棄損で訴えたのです。一部には、この訴えに対して「お金目当てじゃないか」「政治的な動きじゃないのか」とのうわさが飛び交いました。
 私も長いお付き合いをしていますが、石岡先生はそんな金銭やまして政治的なことで動く方ではないことは百も承知しています。先生も「俺はそんなつもりじゃない。ただこのままでは何の解決にならないんで司法の手に委ねたのだ」とおっしゃっていました。結局この訴えは不起訴になって、裁判になりませんでした。

 そうこうしているうちに、作家の井上靖さんがナイロンザイル事件を聞きつけて「よし、これは小説に書いたら面白いだろう」と、翌年の9月にその許可を求めに石岡先生のもとへ来られます。「ナイロンザイルを題材にした小説を書きたい」と頼むわけです。11月から朝日新聞に「氷壁」という題で連載が開始されました。これが評判をよんで大変なブームを呼びます。この小説、私は10回以上読みましたが、ものすごく面白い本です。読んでいない方は是非読んで下さい。今古本屋に行っても必ず置いてあります。 本の中身を言っちゃうと皆さん読まなくなるから言いませんが、ナイロンザイルが切れたとははっきり言っていない。間接的にはそう言っているのですけれど、作家ですからどちらの側にもつきかねるということなのでしょう。井上靖は、6対4ぐらいで石岡さに分があるように書いています。もっとも、朝日新聞の朝刊の連載小説としてスタートしましたので、事故と同時進行的な要素もあってそうならざるを得なかたのでしょう。
 その小説が大ヒットしたものですから、今度
は大映が「これは面白いので映画化しよう」ということになった。主役菅原謙二、山本富士子、野添ひとみ。さらに、川崎敬三、山茶花究、上原謙となりますと、もう懐か
しの往年の大スターのオンパレードです。この映画も大ヒットしました。
          

        
▲ 尾上氏の講演に聞き入る聴衆の皆さん

 私の講演がきっかけで「その大映の映画は手に入らないか。是非とも見たい」というリクエストが沢山ありました。早速探したけれど、販売しているルートはありませんでした。弱っていたところ、たまたまテレビのBS放送で「氷壁」を放送するという情報を得て、ダウンロードしてDVDを作り知り合いのビデオ屋に持って行ってコピーを作りました。
 これを公に定価をつけて販売するのは著作権法違反になるのだそうですけれど、プライベートでダビングして皆さんにお分けするのは別に違反にならないということでした。20枚くらい作って実費だけいただいてお分けしたら、たちまち売り切れてしまいました。今日は皆さんのために、再度ダビングして10枚くらい持ってきております。希望者は後でお申し出下さい。
 それと同時に、冒頭に話した石岡先生の「屏風岩登攀記」も5、6冊あります。先生が自分の書庫にあるものを「支部に寄贈する」と東海支部にくれたのが残っていたので、持って来ました。それから、昨冬東海支部が成功したローツェ南壁の報告書「K2からローツェへ」も持って来ましたので、お帰りの時にでもお買い上げいただければと思っています。

 余談はさておきまして、話を戻します。なぜ東京製綱と東洋レーヨンそして篠田さんは蒲郡実験、はっきり言えばいかさまな実験をやってしまったのか、ということです。その後も何故石岡先生の問い掛けや実験結果にだんまりを決め込んだり、石岡実験を否定したのでしょうか。単純に言ってしまえば、当時ナイロンザイルが丁度出回りかけたところなので、欠陥があるということになれば、まず企業イメージが非常に悪くなる。そして、ナイロン製品全般が売れなくなってしまう、という危惧を抱いたということでしょう。
 篠田教授は実験をやる前に、ナイロンザイルは岩角に弱いということを、同じ工学部出身同士の石岡さんとお話をされている。つまり、弱いこと知っていたわけです。それでもそういうことをなさったということは、俗に言えば企業側に頼まれて敢えてされたのではないか。篠田先生に大変厳しい見方ですが、私は確信犯でいらっしゃったのではないか、と憶測するわけです。

 蒲郡実験の夜、蒲郡の近くに吹き抜きという温泉があるのですが、公開実験に立ち会ったマスコミや山岳関係者をここへ招待し「この通りナイロンザイルは強いでしょう。どうですか。我々の言っていることが正しいでしょう」と、大いに宣伝したと申します。後は、芸者を揚げてどんちゃん騒ぎになったということです。さらに、これも噂か本当か分かりません。私もあまり疑いたくないのですが、阪大の山岳会がピーク29という山へ遠征に行きました。苦労して3回目くらいでやっと登るのですが、そのメインスポンサーの中に東京製綱と東洋レーヨンの名前があったという話もあります。そのことは石岡先生の耳にも達しておられたようで、その話を私は石岡先生からお伺いしています。
 さらに、東洋レーヨンの若い研究者が会社の研究室で、独自で8mmロープの岩角切断のテストをやっていたのです。その時はステンレスで岩の代用をしたそうですが、その結果、自分達の会社の製品がブツンブツンと切れるのを知っていました。彼等も蒲郡実験に立ち会っていました。帰りの汽車の中で、さっき申し上げた三重県岳連の加藤理事と偶然に出会って「おかしいですね。我々がテストした時はブツブツ切れたんですよ」と語っていたのです。それが後ほど内部告発というような形で表面化されていくのです。
 その加藤さんの石岡先生への新村橋での報告、つまり岩角に模したスチールエッジが丸かったことと合致する訳で、実際約1oの面取りがしてあったことが発覚するのです。面取り、すなわち鋭く尖った角を丸くすることです。たった1oの面取りで、ザイルの強度が格段にアップするのです。

 ここでは、大企業の強大な力と大学教授、博士という権威で、都合の悪いことは闇に葬ろうといった意図がありありと感じられるのです。つまり、それは企業エゴ以外の何物でもないということになるわけです。ただ、そういう噂に戸は立てられないのでしょうね。世間にどんどん知れ渡っていきます。マスコミなどの追及があるものですから、ますます篠田さんの立場は悪くなってしまいます。とうとう篠田さんは最後に何を言ったかというと「あれは登山用のザイルの実験ではない。船舶やグライダーなどの牽引ロープの実験を目的にした」と言い逃れるのです。
 東京製綱と東洋レーヨンは黙り込んで、何もコメントしなくなった。その時、石岡先生の実験結果を素直に認めて、自分たちも公開実験をやって「ザイルは確かに岩角に弱いことはよく分かりました。我々も知りませんでしたが、まずかった。石岡先生も含めて本当に強いロープを作るように共同開発しましょう」位の姿勢を示せば、その先の流れは全然変わっていただろうと思います。
 そして先ほどの訴訟が不起訴になってしまう件ですが、その時の担当の斉藤検事という方が「あの実験は間違いではなかった。ああいう条件下でやったテストであるので、あれはあれで正当化される。名誉棄損には当たらない」という理由で不起訴処分にして訴えを退けました。一度不起訴処分になると、日本の裁判制度では同じことで再追訴することはできません。それで石岡先生は行く手を閉じられてしまうわけです。

 しかし、世の中ではやはり石岡先生の言うことが正しいのじゃないか、という評価が出て来ました、徐々に石岡先生の主張を支持する人たちが増えていくのですが、一方、登山界でも無知な人たちやそういうことにあまり関心のない人は、そのままナイロンザイルを使い続けました。その後も20件くらい墜落事故が起きて、死んでいるのです。次々と起きています。ほとんど夏の岩登りで、岩角に掛けられたナイロンザイルがプツンプツンと切れて墜落する事故が頻発します。

 私の大学の山岳部の先輩に、金坂一郎さんという工学博士がいました。大先輩ですが「これは絶対石岡さんが正しいよ。ナイロンザイルは岩角に弱いから、絶対直か掛けするな。冬も氷や岩の上に直か掛けするな」と1年生の頃からこんこんと言われておりました。我々も随分気を付けていたことを今でも記憶しています。石岡先生は決して四面楚歌ではなく、登山界からもいろいろな人が激励の電話や手紙を寄こして「先生がんばれ。あんたが正しいよ」と言ってくれたので、「本当に僕には強い励みになったんだよ」とおっしゃっておられました。

 その後の篠田軍治さんですが、マスコミや登山界から一切身を引かれました。勿論関西支部長もお辞めになられて、何も言わなくなりました。私の想像ですが、たぶん篠田さんは「まずかったな、ちょっとまずいことをしたな」という気持ちだったのだろうと思います。「自分が間違っていた」とは立場上最後までおっしゃらなかったけれど、登山界から静かに身を引かれたということで、そういうお気持ちが伝わってきます。

このようにして、石岡先生の主張が正しく、ナイロンザイルは岩角に弱いという結論がほぼ出たわけであります。事故から20年近くを経て昭和48年に、通産省が消費生活用製品安全法を制定します。今でいうところの消費者保護法、PL法の先駆けになる法律で、これに登山用ナイロンザイルが対象になりました。これを制定するために、専門委員会が設置されます。国もなかなかスマートな配慮をしたなと思います。その専門委員に、石岡先生も任命されたのです。つまり国も公然と石岡理論、すなわちナイロンザイルの特性である岩角欠陥を認めたわけで、それが消費生活用製品安全法という形で具体化されたのです。

 それ以後、東京製綱も含めて登山用ザイルには「ナイロンザイルは大変岩角に弱いです。特に8oロープは二重でも岩登りには使用してはいけません。使用に際しては充分注意してください」という付票を必ず付けるように決まりました。一応これで決着がつくわけです。
 ところが皆さんご存知と思いますが、今は廃刊になりましたが日本山岳会が編集して山と渓谷社が発行していた「山日記」というのがあります。通称「赤表紙」といって大変有名で、皆これを山へ持って行って、余白に行動記録を書いたりしていました。その後ろの方にいろいろな資料が載っているのですが、その中にザイルに関する記述があって、篠田さんのおやりになった蒲郡実験のデータがそっくりそのまま載ってしまったのです。
 これに悲憤慷慨された石岡さんは、日本山岳会および山渓に「これを削除せよ」と度々申し入れるのです。日本山岳会は「編集者が変わった」とか「山渓が作ってる」とか言うし、山渓は「日本山岳会が編集している」と言い逃れて、なかなか削除されずに数年間はそのままになっていました。再三の申し入れに、日本山岳会もやっと重い腰を上げて、これまで掲載し続けたことのお詫びと篠田データの削除を、昭和51年版の山日記で行ったのです。

 これで文字通り石岡先生の全ての戦いは終わるわけですが、その間21年を要したことになります。あの蒲郡実験がすべてを物語っているわけです。今の世の中であれば、こういうことはあり得ないかも知れません。コンプライアンスや企業側の倫理観の向上という点から、起きないかも知れません。やっと戦後の混乱から立ち直って、高度成長に向かうそのスプリングボードに足が掛った頃ですから、企業はまだ足腰が弱く倫理観も乏しい。そうした時代背景がさせたとも言えなくはないのでしょう。

 皆さんもご存知のように、水俣病だとか四日市公害、カネミ油症事件、森永ヒ素入り粉ミルク事件、あるいは阿賀野川水銀事件などの、高度成長という名のもとでのスキャンダラスな事件が続々と起きています。ナイロンザイル事件もその中の一つだと位置付けられましょう。企業倫理の欠如、モラルの未成熟さがそういう形を生んだのですが、これからも同様な事件が起きないとは断言できません。事実最近では、食の安心、安全が叫ばれています。原産地の不正表示、偽装、異物混入などの事件、事故が頻繁に起こっています。未だに企業モラルは欠落していまして、50年前と余り変わっていないのかも知れません。
 ナイロンザイル事件に限っていえば、登山という行為の中での事件です。これはあくまで趣味の世界、という見方があったのではないでしょうか。もう少し一般社会と直結している問題なら、もう少し早く結着していたのかも知れません。特異な事件として扱ったことが、事を長引かせた原因の一つになったともいえます。
 一つの例があります。事件から20年以上たった昭和51年正月のことです。知多半島東海市の消防の出初式で、端から端までロープを張って、チロリアンブリッジといって消防隊員が足を掛けて渡るデモンストレーションがありました。その最中、満座の前でロープがブッツリ切れて隊員が落ちて大けがをしたのです。
 新品のロープなのに、と消防署が石岡先生に切れた原因の究明を求めた。石岡先生がいろいろ調べたら、ロープがピンと張っているときは大丈夫だったのだけれど、60s以上の体重が乗っかって、ロープが伸びその両端の所に鉄の角があって、そこでゴシゴシ擦れて切れたことが分かったのです。改めてナイロンロープは岩角に弱いということが、正にそこで証明されたのです。それは人の前でしかも消防署という公的機関での事故なので、素早い対応が求められた結果だったのです。

 今風に言えば、東京製綱も東洋レーヨンも「ごめんなさい」と頭を下げればよかったのです。最近テレビでよく見かける、深々と頭を下げるやつです。あれにはマニュアルがあって、60度曲げて10秒間続けると、見ている人は「本当に謝っているんだな」と思うらしいです。そんな風に謝って、そこに石岡先生も同席して「これから絶対に安全なロープを共に作りましょう」というようなことで締めくくれば、それほど大きな問題にならなかったと思います。戦後の未成熟な社会のひずみの一端であったと、私は思います。

 これでナイロンザイル事件は全て終わったと、皆さんお思いになるでしょう。ところが平成元年のある日、マスコミに「第二のナイロンザイル事件発生か」という扇情的な記事が出ました。どういうことかというと、平成元年、日本山岳会は篠田軍治さんを名誉会員に推戴するのです。紆余曲折はあったのですが、評議委員会の全会一致で決めて、理事会も通ってしまうのです。
 石岡先生は立腹されて「そんな馬鹿なことはない」。先生の言葉を借りると「彼は人殺しだ」「そんな人間をなぜ名誉会員として崇める必要があるのか。直ちに名誉会員を取り消せ」と日本山岳会に訴えたのです。先生は東海支部の創始者ですから、東海支部長の名をもって理事会に「再審議をしてほしい」と再三申し立てるのですけれども、本部は「一度決めたものは覆せない」と頑と聞き入れてくれません。
 実は、その時の支部長が私でして、副支部長が今日ここにおられる中世古さんです。その時の会長の山田二郎さん、藤平正夫さんには何回も名古屋へ足を運んでいただいて、石岡先生も交えて話をするのですが、いいところまで話がいっても、最後は「許せません、取り消して下さい」としか石岡先生はおっしゃらない。
 関西支部が名誉会員に推したのですが、その理由は、晩年は山の世界から疎んじられたけれど、大変苦労をされた。病床に臥せておられて今か今かという時で「先生、名誉会員に推しましょうか」と言ったら「ありがとう」とおっしゃった、という単純な発想だったそうです。確かに篠田軍治さんのJACへの功績は、大なるものがあったことは事実です。

 当時の日本山岳会の本部は「ナイロンザイル事件はもう30年以上もたって風化している。事実大きな事件ではあったが、石岡さんの方に軍配が上がって決着がついて世間も納得しているので、おそらく石岡先生も今更蒸し返してはこないだろう」という甘い判断があったと思うのです。一般的にはそういう判断もあるでしょうけれど、人の受けた苦しみ、人の受けた屈辱はやはり受けた本人でないと、本当の辛さや悲しさは分からないということです。日本山岳会も、もう少しよく考えるべきであり、配慮が不足していたのです。
 また、東海支部の対応も悪かった。もう少し早く聞いていたり情報を察知できていたらもう少し早く立ち上がれたのですが、あっという間に決められて何も言えなくなってしまって、後の祭りです。そういう意味で、我々も配慮が足りなかったといえましょう。申し訳なかったと今でも悔やんでいます。その責任をとるということで、私と中世古さんが支部長と副支部長を任期半ばにして退任しました。
 結局、篠田軍治氏の名誉会員は覆りませんでした。このことで、石岡先生は日本山岳会を退会されています。そのことも含めて、この事件は風化させてはいけないという思いは、強く私の心の中に宿っています。今はこの事件に携わる方も少なくなり、知る人もだんだんいなくなってきています。ですから尚更私は、語り部として機会があればいろいろな所で、このナイロンザイル事件を語り継いでいこうとの思いです。

 日本山岳会は今年で百幾つになりました。ある人が名言を吐きました。「日本山岳会百年の歴史はすばらしい。登山界における功績もすばらしい。すごい人を輩出した日本山岳会の百年は輝かしいものである。けれど、唯一汚点がある。それは篠田軍治氏を名誉会員にしたことである。これが最大にして唯一の汚点である」と。
 その篠田博士も、
19912月にお亡くなりになっています。去る者は日々に疎しといいますが、これを風化させてはならないという強い思いは変わりません。またどこかでお呼びいただける機会があれば、行って語り部としての責務を果たそうと思っています。いつでもお声を掛けて下さい。

 長時間お話をさせていただきました。これで話を終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

[平成20年11月14日 講演]

      
        最後に尾上講師を囲んで東海支部・岐阜支部の皆さん(前列中央が尾上講師)


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