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14  15 16

  bS

11/2
2004
先日の「言いたい放題」で昔出会った先生の話にふれた。金八ドラマ絡みで思い出すことになったのだが、新たに色々なことが思い出されて懐かしい。
小学校のK先生は本当に人格者だった。子供ながらにも怪しげだと思う先生はたくさんいて、大人になりしっかり物事がわかるようになってから思い出すと、ほんとうにとんでもない先生だったと改めて思うことがある。それと真逆なのがK先生だ。子供の時も信頼ができて、ホッとするような存在だった。怒ったり声を荒げたりすることは全くなかったのに、その存在感だけで、生徒は信頼の上で先生に従っていた。
一度きり、ほんとうに一度きりだけ、私のアザを気持ち悪いといった生徒にいかった。
理屈ではなかったのだろう。手がでたのは純粋にいかったからだと思う。先生の真摯ないかりで、なぐられた生徒が言ったことはとてつもなく悪いことだと、クラス全員が察知した。
しかし昔の子供はたくましい。今なら手をあげた先生はどうなることやら・・・。

中学のK先生も涙ぐみながらいかっていた。人種差別発言をした生徒に「出て行け!」と言った後、社会科は世界人類が融和していくことを学ぶことに意味があり、でなければ国の名前や地名なんか覚えてもなんの意味もない云々・・というようなことを話された。
K先生も怒ったり声を荒げたりすることはそれまで皆無だった。生徒はみんなシンと聞いていた。30年近くも昔は、生徒は真剣に先生の話に耳を傾けていた。私は子どもがないので、現代の学校のことは全くわからないのだが、先生も受難なのだろうか。もう純粋にいかってくれる先生もいないのだろうか。

思い出したくもない先生もいるが、私は節目節目に良い先生に出会い、助けられた。私にとって先生は、いまだ聖域である。「金八先生シリーズ」を今までしっかりと観た事がなかったのは、聖域に触れたくなかったからかもしれない。
10/31
2004
「金八先生」の第3話を観た。ショックである。生徒の言葉になぜ金八先生は沈黙したのか。

profileにも記したが、小学校の席かえで、男子生徒が私のアザのことを「気持ち悪くって隣の席になりたくない」と言った。瞬間、生徒はK先生に殴り飛ばされ、教室の隅に飛んでいた。一瞬のことで私もクラスのみんなも何が起きたかわからないくらいだった。普段は絶対暴力なんか振るいっこない先生だったのに。その後先生は何か言葉を発したのか、なかったのか(たぶんなかったと思う)記憶にないが、その時同じクラスだった子からは、その後中学に上がってからもアザのことを言われたり、いじめられたりすることはなかった。ガキ大将だった男子生徒もいいヤツに成長していた。

中学の社会科の時間、差別発言をした生徒に、「ほんとうにそう思っているなら、教室から出いけ!」といった先生(N)がいた。その後先生は5分ほど話をされ、その先生の只ならぬ表情に生徒はシンと聞いていた。先生の言われた言葉は今でもはっきりと覚えている。
今の中学生に通用するかどうかはわからないが、小学校のK先生も中学校のN先生も純粋にいかっていた。金八先生も弟をいじめられた生徒のように(勿論理屈ではなく)いかるべきだったと思う。
子供は残酷だがピュアである。まだ発達途中であるから、違うことは違う、悪いことは悪いとはっきり示せば理解できることの方が多い。金八先生は沈黙するべきではなかった。

しかし金八先生らしくない。こんな風にも考えてみた。娘の乙女が男性(青木先生)に惹かれているのを察知して、教育者としてよりも父親の感情が出てしまったのか。アザもちさんが生徒ならば、黙ってはいなかったかもしれないと思ったりする。
もしくは、ドラマなので、その場で金八先生が「それは間違っている」と生徒を諭し、終わりにしてしまうわけにはいかないのかもしれない。もしそうだとしたら、それは甘いといわざるを得ない。今後のストーリー展開や設定にどんな秘策があるとしても、やはり金八先生はあの場では決して沈黙してはいけなかった。沈黙させるのであれば、あのシーンはカットすべきだと思う。
もうひとつ思ったことは、悪役のマークにされてしまうアザという障害は、金八先生が涙を流して生徒にいかってくれるほど、重大な扱いにはしてもらえないのかも・・・。「アザのない人と共感することが難しい」という言葉が、また頭をかすめた。
それでもやはり今後の展開に期待してしまうが、ナナさんが言われる通り、神さまの域くらいに人格者のイメージがある金八先生だったので、心穏やかでない。
10/30
2004
最近少々小忙しい。言いたい放題したい思いがたくさんあるのに、文字にする時間がない。けれど、掲示板は毎日開いてその度に胸を詰まらせている。
みるてさんHPの掲示板には、恐れていた通り、「3年B組金八先生」のアザもちさん役登場に傷ついている人の書き込みがあった。
17日の掲示板に、
『自分が中学生の時のことを思い浮かべてみると、金八先生のアザもちさん役登場も、精神的にキツイことだと思います。きっと、そっとしておいて欲しいと思うでしょう。金八先生の視聴者は中学生や高校生が多いと思うので、月曜日学校で、金八先生の話題がでるのではないかと、緊張や恐れで辛い思いをしている子もたくさんいるのでは。大人の私でも、アザを隠していなかったら、会社で金八先生のアザもちさん役の話題を誰かがしていたら、身も細る気持ちになるでしょう。そう考えると、金八先生のアザもちさん登場に手放しで喜んでいる場合ではないと思うのですが、やっぱり社会に私たちを理解してもらうには、避けては通れない道なのでしょう。』と書き込みをしてから、これから半年間続く「金八先生」のドラマに、息を詰めるようにして過ごす子がたくさん出るかもしれないという思いが、フツフツと沸いて膨張して、確信になった。

録画をした第3話はまだ観ていないが、なでしこさんの書き込み(10/29)を読んで、
『回が進むにつれ血管腫の事が正しく、詳しく説明され、理解を得ていくことでしょう。少しでも多くの人がこの番組を通じて、あざのことを理解していただけたらうれしいですね。』=なでしこさんごめんなさい。無断転用しました= に同感である。ほんとうに心からそう願う。でなければ、ドラマによりアザもちさんが辛い思いをしただけに終わってしまうから・・。

話は変わるが、丹後半島の伊根町の「船屋」を観光した。郷愁を誘われる美しい風景だった。
ただし、その途中舞鶴を通り、先日の台風によってうけた被害を直に見ることになってしまった。家も道も町中が泥だらけで、人々が復旧作業をする中、(私たちも観光だが)観光バスが通り抜ける。その夜、帰途につくマイカーの中で、中越地震のニュースを聞いた。
今年、日本はたくさんの自然災害を受けた。何時自分の身に降りかかってくるかわからないのだが、当事者と当事者でない間には大きな隔たりがある。当事者になって初めてわかるたくさんのこと・・。

ごく普通に生きてきて、突然障害をもつ子の親となる。当事者となったmikaさんの(10/25)
『私は、息子を持つまで、ただの人で、どちらかというと他人に感謝しない、高慢な人生を過ごしてきた人間です。=中略= でも、今は、息子が私を、ほんの少し、心の温かい人間にしてくれる為にここにやってきてくれたのだと、感謝しています。』=mikaさんごめんなさい無断転用しました= という言葉に胸が揺さぶられ、涙がこみあげた。
10/16
2004
ネット注文の送料をケチって、書店に取り寄せを頼んだ「顔面漂流記」の改訂文庫本、「顔面バカ一代」をやっと手にすることができた。書店を出て、待ちきれず大手スーパーの中を歩きながら本を開く。途中何回も通行人にぶつかりそうになったため、通路のベンチに腰を下ろし、新しくなった「エピローグ」を一気に読んだ。
又新たな感動と、石井代表の目指すものを確認した。
「顔面漂流記」の中で、治る可能性のある最新治療の勧めを石井氏が断ったくだりがある。血管腫の膨張を予感している石井氏を心配しながら、治療を断った彼の心に思いを馳せた。ものすごくわかるようでわからないような。
私は、異形としてのジャーナリストである石井氏から、アザがなくなったり半端な治療効果を残すのは、彼の生命線(職業としての)を断つことになるからかなと、すごくイヤらしいことを思ったりもした。今ではとても恥ずかしい。

はじめて私がレーザー治療をした際、明らかに薄くなっていく効果に感動し、期待した。けれど範囲や状態によっては完治できる人もたくさんいると思うが、できないことも多いという事実に直面した。
今、新しいレーザー機器が開発され、期待に胸膨らませて辛い治療に励んでいる人が、いつか治療の限界を感じて悲しい思いをしないだろうかと心配でもある。
もしそうなった時、石井代表がされている活動は、私たち異形のものには大きな拠り所となるに違いない。
想像する。もし自分が完治できたとしたら、HPを閉鎖することはなくても、毎日開いていた掲示板にもそれほど関心はなくなるであろうか。アザがどんな状態でも完治できる時代がくるとする。その時私たちアザもちさんは、異形としての経験を過去のものとして、異形でない人の世界へすんなり入って、何事もなかったようにできるだろうか。社会には他にも怪我や病気や事故で異形に苦しむ人がたくさんいる。同じ異形として苦しんだものとして、もう自分とは関わりのないことにしてしまえるのだろうか。
石井代表が活動されているのは、異形の人が心から望んでいる、異形でも屈託なく生きていける社会をつくるという、壮大なものなのではないだろうか。
そして、「顔面バカ一代」を手にした日に、奇しくも「3年B組金八先生」のアザもちさん登場の記事を眼にした。

悪役の代表にされるような扱いを受けていたアザもちさんが、やっと社会からその存在と苦悩と問題をテーマとされる時がきたのだ。この一歩はものすごいと思う。ここまで辿り着くのにどれほどの長い道のりであったか。やっと石井代表の活動によって、大きな一歩を踏み出したのだ。
数年前にNHKのアーカイブで、車椅子の身体障害者をテーマにしたドラマを見た。確か古尾谷雅人さんが出演されていて、今から20数年前に製作されたドラマだった。引きこもりの車椅子の障害者が、みんなで表にでようというようなストーリーで、障害者に優しいバリアフリーを目指す社会になりつつある現代、車椅子の障害者がたくさん活躍されている現在からは、想像もつかないドラマだった。そして、社会は確かに変革しているのだと感じた。
今まで遠慮なく悪役のマークとしてアザをつけられ、アザもちさんの苦悩など見過ごされていた社会に、「金八先生」は間違いなく一石を投じてくれるだろう。同情や哀れみというような扱いではなく。今後の展開にドキドキである。
ああ、いつの日か「金八先生」の生徒の中に、アザもちさんの生徒が普通にいる時代になるかもしれない。

PS.昨日金八先生を息をつめて見ました。アザもちさんを画面で見るということは、少し勇気のいることかもしれませんが、自分たちが慣れなくて誰が慣れるのでしょう。良い意味で慣れって大切ですよね。夫は寝転んで見ていましたが、アザもちさん役が登場すると、寝転んだまま居ずまいを正していました(笑)。ところで、現代の中学ってあんなんなのですか?びっくりです・・・。
10/10
2004

掲示板は旅行以外必ず毎日開く。何かレスをと言葉を捜すのだが、溢れる思いとは裏腹に気持ちに沿うボキャが見つからない。そうして日々が過ぎていく。
過去の治療がネックになって、新しい治療ができないという人の書き込みにも、思いが一杯あるのにレス出来ずじまいである。
HP開設当初、長年の治療にも限界を感じ、先生にもこれ以上の効果は期待できないと言われ、完治は無理と悟り何か救いを求めていた。そして、このままで何の屈託もなく生きていける社会というものは望めないのだろうか、ということを考えていた。HP開設の根底にはそんな思いがあった。
血管腫は病気でもあるので治療で治るのなら勿論それが一番であると思うし、HPによって血管腫や治療関係のたくさんの情報を頂いて、今後治療によってもう少し良い状態になるのでは、という期待が膨らんでいることも否めない。けれど、このままで屈託なく生きていけないのか、という当初の思いは未だ消えてはいない。

10月9日のシャドウさんの書き込みを読んで、ナナさん同様シャドウさんの勇気に尊敬で一杯になった。『お母さん方にはアザのこと、治療のこと、ここで学んだ血管腫というもののことを話しました。皆さん、理解してくださったようです。』というシャドウさんの言動は、私が自分に求めていたものだった。
アザをスティグマ(石井政之氏著書より)扱いする心の貧しい人は一部で、ほとんどは普通の人であると思う。ただ血管腫の知識がなく、日常にアザもちさんとの接点がないだけである。普段接することのないアザもちさんと突然面と向かったら緊張するだろう。おかしな話だが、自分でも自分と同じアザもちさんと面と向かいあったら、視線をどうしようかと困るかもしれない。
シャドウさんの書き込みにあるように、子供の反応は無邪気で正直である。大人でも、もし日常にアザもちさんが氾濫?するような社会だったら、人々は慣れるであろう。シャドウさんのように自身の血管腫について、自分に接する人にキチンと話すということから社会は何か変わっていけるのでは、という一筋の光のようなものを感じた。

10年近く前、プロを目指す漫才コンビを取り上げた番組を見た。コンビの一人は太田母斑を持ち、評論家にアザを治療しなさいと言われていた。理由は、アザが気になって笑いに集中できないというのである。建前の助言ではなく、正直といえば残酷なほど正直である。アザもちさんの男性は、治療を考えますと健気で、私は胸が痛いくらい切なかった。そしてアザは世間に認知されないということを改めて痛感した。
けれど思う。何故いけないのか?アザもちさんのニュースキャスターがいてもいいじゃないか。3年B組金八先生の生徒にアザもちさんが普通にいてもいいじゃないか。
長い間ひっそりと苦悩してきたであろう性同一性障害の人も、世間で認知される時代である。概念や価値観は日々変革しているのだ。そういえば、姉が最近太田母斑をもつアナウンサーを見たといっていた。NPOユニークフェイスが活動を始め、石井政之氏がメディアでも活躍され、いつかいつかアザもちさんの漫才コンビに大笑いする日が来てもいいのでは・・・。
『私はこのままの姿で、きっと自分を社会に受け入れさせる』(この言葉の奥には深い痛みがあることは勿論ですが)と素顔で生活されている「Kikuさん」のHPを是非にとリンクさせていただいたのも、自分のそういった思いがあったからだと思う。

それにしても顔や首に広範囲のカバーメイクでアザを隠して生活している私には、こんな理想を語る資格はない。
けれど、いつの日かアザもちさんは一斉に社会のひのき舞台へと進出する。長袖を半袖に着替え、パンツをスカートに履き替え、カバーメイクをとって。ひのき舞台は、ご近所の集会であったり、職場であったり各自様々なのだが、アザを隠すことなく燦燦とお日さまの輝く表舞台へと堂々と出る。
私は密かにこれを「アザもちさんの叛乱」とよんでいる。いつの日か・・。

10/2
2004
先日母から電話があった際、幼少期に受けた放射線療法について初めて詳しく聞いた。
生後3ケ月から4歳半まで、毎週一回水曜日に治療を受けていたとのことだった。週一回4年間の回数の多さと、今でも通院時の領収書はすべてとってあるという母の話にかなり驚いた。
私が4歳になった頃から治療をイヤがるようになり、効果も全くあらわれなかった為、止めることにしたそうなのだが、母は30代前半の4年間を私の通院で費やしたのだ。今では全く無効であるといわれる治療に、お金や歳月やエネルギーを4年間も費やして、OH MY GODである。
電話で、少しであるがその頃の父の思いも聞くことができた。無口な父の思いは伝わりにくいので聞いておいて良かった。

私は放射線治療の記憶は全くない。母の記憶違いと思ったくらいだから。3歳年上の姉の記憶はかなりはっきりしていて、姉も私の通院に連れて行かれたのだろう、私が母の記憶違いと思ったと言ったら、「どうして覚えていないの?」と絶句していた。周りをよそに本人だけは脳天気だった。
しかし、母が元気なうちにちゃんと聞いておいて本当に良かったと思う。姉が、数年前に亡くなった祖母にもっと色々なことを聞いておけばよかったと言っていたが、元気なうちに聞いておきたいことはまだまだあるような気がする。母は、数年前のことはちょっとボケて忘れたりしているのだが、大昔のことは昨日のことのようだから。

突然話は変わるが、久しぶりに「TRF」を音楽番組で見た。TRFはダンスミュージックの最高峰だと思う。母も姉も私も歌が大好きで、音楽番組を見るときは大合唱になる。夫は静かにアーティストの歌を聴きたいようで、私が隣で歌い出だすと睨まれる。
と、またまた話が逸れてしまったが、TRFのキーボード担当のKOOさんにはまた少し別の思いがある。TRFが全盛期の頃、KOOさんの私生活について触れた番組を見たことがある。彼は、一人暮らしの小さなマンションの部屋に帰り、そして両親が入っているという小さな仏壇に手を合わせていた。トップアーティストとしての華やかさとのギャップや裏腹さに、驚きと同時に、切ない気持ちになった。そして、見かけはハデで異星人のように遠い感じのするKOOさんが、ものすごく身近に感じられた。

豪快に生きても地味に生きても、ジタバタ生きても優雅に生きても、いづれ必ず永遠に眠る時がやってくる。語れる時に語り、聞けるうちに色んなことを聞いておかなくっちゃ。
9/26
2004

幼少期、アザにラヂウム治療というものをしたと母から聞いた。
私と同じ年代で、放射線療法を経験された方はいないだろうか。
母は一回にひとつと決められているラヂウムを、治したい一心であったと思うが、そっと2つ貼っていたという。その後その放射線療法は禁止となり、大きくなってアザの診察の際ラヂウム治療を受けたことを先生に話す度、アザを治す事より後遺症に注意しなさいと言われた。母は私が二十歳になっても後遺症を心配していた。それでも、10年20年後に発病する可能性があるといわれた後遺症は、一体どういうものか全くわからず、自分では勝手に白血病に違いないと思っていた。
あれから40年、最近姉から「ラヂウムの治療を経験した人っていないのかな」と言われ、そういえば聞いたことがないな、もしかしたら母の勘違いでは・・と思い始めていた。勿論後遺症のことは(不安は残しながら)もう無いと決めかかっていた。
そんな時、医学的にも網羅されたサイトで、放射線療法についての情報を見つけたのだ。   
=管理人さんから直接いただいた情報も含め、下記に紹介させていただきます=

さらに古くには、放射線療法が用いられてきた。
放射線療法はPWSには全くの無効であった。
過去のPWSに対する放射線治療は皮膚癌発生のリスクファクターになりうるとの報告があるので、放射線治療経験者は定期的な受診をする等、用心するべきだと思われる。    
                                           【HP本文より】


放射線療法の件について補足しますね。PubMedにはbasal cell carcinomaと記載されています。
日本語で言うと基底細胞癌、或いは基底細胞腫ということになります。
これは全皮膚の悪性腫瘍(つまり皮膚癌)の約25%を示し、頻度は非常に高いものです。
ゆっくり成長し、局所破壊性に進行してしまいます。ただ、リンパ節や臓器への転移は起こしません。
殆どの場合は外科的切除や放射線治療で完治できるそうです。
しかし放っておくと骨や軟骨を破壊して深く浸潤する場合もあり、その際は大きく顔を切除することになってしなければならなくなってしまうため楽観は危険です。
・・・という病気にカメオンさんは他の人より少しかかりやすいかもしれないなという話です。
こういった情報はあくまで予習みたいなものなので、本番の診療のときにもう一回聞いてみてくださいね。
受診は恐らく皮膚科で正解ではないのでしょうか。
医師とよく相談ができて納得のいく適切な医療を受けれたらいいですね。お大事にして下さい。
                                                【BBSより

何となく漠然と恐れていたモヤモヤとしたものがはっきりとした。
勿論ショックなことではあるのだが、はっきりとした方が救われるということがある。今まで何だかわからなくて不安だったことが少しずつ見えてくるということは、何もわからないより気持ちが救われるのだ。今後は定期的な診察を受けようと思っている。
BBSのお返事を朝読んで会社に行き、帰りの車の中不意に胸がいっぱいになった。漠然と不安だったものにも、いつの日かちゃんと答えがあったことに。情報を暖かい心で提供してくださる方がいることに。。

9/17
2004
=私が出逢ったアザもちさん @ =

100人に一人の割合で何らかのアザもちさんがいると聞いた。
そういえば、夫の腕にも直径5mm程の単純性血管腫がある。小麦色の肌の中に小さく赤くポツンとあるアザは、気になるようなものではなく、多分浅い位置にあるのだろう、指でそっと押さえると消えてなくなる。
私がはじめてアザのことを口にした時、夫は「オレにもあるよ。ほら。」といって、腕のアザをヒョイと見せた。泣き出しそうになる私を何とか励まそうとしたのだと思うが、そのアザはあまりにも小さくてかわいくて、慰めにもならなかった。今では、夫のアザを指でチョイと触っては、私との運命の赤い糸だと一人で思っている。

アザもちさんはたくさんいるらしいのに、滅多に出会ったことがない。身体の露出しない部分にある人やカバーメイクで隠している人が多いので出会わないのだろうか。
初めてアザもちさんに出会ったのは中学生だった。
登校時間だったので午前8時くらいであろうか。黒いアザ(おそらく大田母斑)が顔のほぼ半分にある初老の女性と週に1・2回通学路ですれ違った。初老といったが、中学生の自分が感じたことなので、もしかしたらまだ50代ぐらいだったのかもしれない。和服を着て、どこへ向かうのかわき目もふれず、いつもスタスタと通り過ぎた。私はどうしてもチラと見てしまうのだが、大人だからか、見られることの辛さを熟知しているからか、私には一度も一瞥もくれなかった。

子どもの私にはすごく不思議な感覚であった。何が不思議かというと、大きなアザを持った人が年輪を重ねているということにである。ずーっと生きてきたんだ、どんな生活をしてるのだろう・・・と、そんなことを思った。自分が40代になった今、アザがあっても生きていかなくてはならないし、年輪を重ねたアザもちさんがいることに何の不思議もないが、中学生の私には不思議な感覚だったのだ。たぶん、この人はどんな生活をしているのだろうということよりも、この人はどんな人生を歩んできたのだろうかということを、漠然と考えたのだと思う。考えても想像もつかなくて、年輪を重ねたアザもちさんの存在が不思議だったのであろう。

最近、母にそのアザもちさんの話をした。母はその女性を見かけたことがあると言い、驚いたことに知っていた。知っているといっても風の噂程度のようで、数年前に亡くなったという。
町は同じでもその女性が住む地区と実家とはものすごく離れている。それでも母が知っていたということにある意味少しショックだった。やっぱりアザもちさんは目立つようである。前にも書いたが、何もしなくてもただでさえ目立ってしまうアザもちさんは、堅実にひっそりと生きている。ひっそりと生きていても目立ってしまう。悪事をはたらくのも難しい。
だからどうか悪役にアザをつけるのはやめてね。 =話がとんでしまった=
9/12
2004
韓流が社会現象になっている。私も昨年姉の紹介で「冬のソナタ」に出合った時は、冬ソナの世界にどっぷりとはまった。今では70歳を過ぎた母がすっかり冬ソナのとりこになっている。冬ソナを見た土曜の夜は、なかなか眠りにつけないという。

韓流ドラマの中でいくつか心に深く残るセリフがある。
  「冬のソナタ」の中のセリフ
妻の命日に悲しみを紛らわすため深酒をし、それが原因で会社を辞めさせられそうになる作業員のおじさんをかばっての主人公(女性)のセリフ=主人公(女性)は高校時代初恋の人を突然の事故で失っている。

昨日までとまわりの景色は何も変わらないのに、その人だけいないという悲しみがあなたにわかりますか

  「美しき日々」の中のセリフ
白血病を患う主人公(女性)とそれを知って愛する彼女との結婚を決める主人公(男性)。結婚式の夜、二人で向かいあいながらお互いの望みを言う。
主人公(女性) ご飯を残さないこと   主人公(男性) 大丈夫僕は好き嫌いはないから  など他愛ない会話を微笑みながら交わし合い最後に

主人公(男性) 僕をおいて逝かないで・・・

韓流ドラマは確かに設定が強引だったり大雑把だったりする。それでもこれほど人の心を惹きつけるのは、根底に揺るぎないテーマがあるからだと思う。長い人生の中、悲しみを知っている人の心に響くのである。私は20代だったなら冬ソナにははまらなかったかもしれない。自分を愛してくれる人や家族は、あたりまえのように明日も元気で存在するものだと思っていたから。冬のソナタは単に恋愛のドラマではない。中年以上のファンが多いというのは、人生の悲しみを知るという向こう岸に渡った人の心を、ストレートに打つからかもしれない。
9/5
2004
以前、某重工業会社で派遣社員として働いたことがある。私の仕事は庶務だったのだが、飛行機の設計や解析をするエンジニアに混じって、貴重な1年を過ごした。エンジニアたちは寡黙で、概ねシャイな人たちが多かったのだが、親睦会というような飲み会では、穏やかに紳士にそして飛行機について熱く語った。HUAロケットに携わったことがあるというエンジニアもいた。

ジェット機にもヘリコプターにも戦闘機にも興味がない私だが、ロケットというと少ーしロマンを感じる。1926年3月16日、アメリカのロバート・ゴダードは、世界ではじめてマサチューセッツ州オーバーンの農場で人類初の液体燃料ロケットを打ち上げた。飛行時間2.5秒、最高速度秒速12メートル、到達水平距離56メートル、平均時速100キロメートルというもので、ニューヨークタイムズに「高校生程度の知識もない」と酷評された。
1969年7月アポロ11号が月面着陸に成功すると、ニューヨークタイムズはかつての誤った記事の訂正文を掲載し、ゴダードを讃えた。ゴダードはその後もロケットを改良し続け「近代ロケットの父」と呼ばれた。 1926年にオモチャのようなロケットが誕生してから実に43年間の歳月を経て、人類は月面に着陸したのだ。

ところで、人類のロマンは別として、私のようなド素人には月面に到着することに何か意味があったのだろうか?という疑問がフツフツと沸いてくる。地球上には貧しく厳しい生活を余技なくされる人々がたくさんいるというのに・・・。地球で人々が豊かに暮らせるよう、お金もエンジニアの能力もエネルギーももっと違うことに使ったほうが・・というと、見当違いで顰蹙だろうか。
昔父が「月にいける時代になんでアザぐらい治らん」と言って涙を溜めていたと聞いたが、ダイレーザー誕生から十数年?、人類が火星に着陸するよりも早く、完治可能のレーザーが誕生することを切望してしまう。
8/28
2004
別に何の変哲もない休日のいつもの昼下がり、私に内部変革があった。
「ピンポーン」という玄関チャイムに宅配屋さんの影、いつもなら「ビクッ」と固まったまま息をのみ、自己嫌悪に襲われながら居留守を使うのだが、その日はじめて素顔で宅配屋さんと対峙したのだ。
何が私を突き動かしたのかはわからない。わからないが、ドアをそっと開け、「お荷物です」というイケメン宅配屋さんから、受領印を押し荷物を受け取ったのだ。ドアは半分しか開けなかったし、宅配屋さんも知らないお客様をジロジロとみることはしないので、ほんの1.2分の出来事だった。
けれどこの瞬間をむかえるのに20年間かかったのだ。

アザがあることは恥ずべきことではないが、それが原因で居留守を使う自分は恥ずかしいといつも思っていた。このHPで、素顔の時は同じように居留守を使うことがあるというアザもちさんの書き込みを読んで、「ああ、自分だけではなかったのだ」と、目から鱗と同時にものすごく救われた思いがした。
BBSにカキコをしたことがあるが、以前近くで車の事故を起こした人が、家に電話を借りに来たのだが、どうしても出られなかったことがある。
チャイム音とともに「すみませーん!すみませーん!」という呼び声を今でも思い出す。結局その人は他の家に行き、事故も大そうなものではなかったのだが、切羽詰って困っている人を前に、アザを気にして出られないというのは、しみじみ「病んでいる」と自覚した。

以前(6月10日)スズさんの書き込みに、『些細な日常会話の出来事でさえ気が重くなることがあるということです。そんなことでさえ気にかけるようになっている自分の心は重症だな、と感じるのです。』(
ありえへんで検索できます= スズさん許可なく転用しました)というものがあり、私の心に深く残った。心のどこかが病んで、重症なのである。

この電話を借りに来た人の話は夫にもしたことがなかったが、以前メールを頂いた方とのやりとりでお話したことがある。カバーメイクをしている同じアザもちさんなら、この出来事を深く理解してもらえるのでは、という気持ちがわいたから。
掲示版に時々カキコもくださるその方は、「自分はほんとうに留守だったのだと思っては」と、一生懸命私の気持ちが楽になるように励ましてくださった。(ありがとう・・・)

今なら迷うことなく玄関の扉を開けるであろう。事故って大変な状態の人が、私のアザを気にする余裕なんてあるはずがないということも、今なら十二分に思考できる。思考できなかった以前は、やっぱり重症だったのであろう。
どうして快方に向かっているのかはわからないが、このHPの存在は大きいと思う。何度も言っているが、ほんとうに心が解き放たれてきたのだ。勿論完治ではない。見知らぬ宅配屋さんには玄関を開けることができるが、ご近所の顔見知りの人にはまだ勇気が出ない。きっと固まったまま居留守を使ってしまうだろう・・・。アザの完治と内面の完治。これは同時進行でしかありえないのか、アザは完治しなくても内面の完治はありえるのだろうか・・・・。
いずれにしても、素顔での老後を思い描いている私には、内面革命のような意味ある休日の午後だった。

PS.宅配屋さんの荷物は、ミイさんオフホワイトさんが情報をくださった「キャビロンスプレー」です。こちらについては近日お伝えしたいと思っています。
8/19
2004
昨年の夏にHPを立ち上げてから、1年が経った。22日までという長いお盆休みに、この1年を振り返ってみた。うーん、この1年はとても短かったように感じる。自分の中では5年ぐらい経ったような感覚があるのだ。僅か2.3行で始まった「カメオンの言いたい放題」も段々と長くなり、こんな長いものうざったくて誰も読みたくないのでは?と思いながらも、何でも良いから思いを吐き出したい、メッセージしたいという自己満足で突っ走った1年である。

HPを立ち上げるにあたり、HPの先輩ちょこさん(ちょこさんHP)から『ゆっくりマイペースで』という言葉を頂いて、この暖かい言葉にとても救われた。
「言いたい放題」に関しては、アザをテーマとしたHPなので、最小限なるべくアザから話題は離れないようにしたいと、立ち上げ時から決めていた。私は有名人ではないので、私のアザから離れた日常を綴っても、HPを訪れてくださる方の関心事ではないと思ったから(時々脱線してるけど・・)。
なので、私の日常は常にアザ中心に回っているように感じる方もいるかもしれないが、そういう訳ではない。いつもアザのことばかりを考えて暮らしているわけではない。
ただし、同じアザもちさんは共感してくれると思うが、やっぱりアザは潜在的にアザもちさんの日常を縛り、自分が感じている以上に、アザ中心の日常になっているのかもしれない。

HP開設から1年が経ち、日常に変化がある訳ではないのだが、40年間の思いを吐き出して、ほんとうに気持ちが解き放たれた。これからも「ゆっくりマイペースで」というちょこさんのメッセージを思い起こして、なるべく長く運営していけたら幸いである。(ちょこっとアザから離れた事も言いたい放題しようかな、と思う今日この頃である。)
8/2
2004

先週美容院に行った。2年ほど前に、行きつけの美容院に行くのをやめて以来、ずっと自分でカットしていたのだが、今年4月に思い切って新しい美容院の扉を開き、先週で2回目である。
以前行きつけの美容院は、首の後ろにもアザがあるので髪を梳かないでくださいと言ったのに、思いっきりタコ足のように梳かれてしまい、それに懲りて行くのを止めた。
季節は夏で、その頃の派遣の仕事は私一人壁に向かってパソコンを打っていたので、真後ろにあるたくさんの視線を気にして、髪が伸びるまで首全体を化粧するという面倒なことになった。
その後新しい美容院の扉を叩く勇気がなくて、変かもしれないと思いながらも、騙し騙し自分でカットしていた。そして1年と9ヶ月後の今年の4月、シャンプーなしの激安1365円の美容院の扉を叩いた。

美容院で先ず緊張するのはシャンプーだ。すぐにアザやそれをカバーする化粧に気づいてもらうのは困難で、思いっきりシャンプーされるとカバーマークは剥げ美容院のタオルはファンデーション色に染まる。そこでやっと気づかれるのだが、言い出すタイミングが難しいし、シャンプーの間中こぶしを握り締め緊張がはしる。なので、美容院はシャンプーなしが望ましかった。

簡易建物でありながら、おオシャレ感のある美容院の扉を開け、鏡の前の椅子に座った瞬間、ものすごく後悔した。美容師さんが余りに無愛想で怖かったので。
「どうしますか」ときかれ、私は本能的に何センチ切りたいのか、アザがあるのでそれをカバーしたいことなどをすべて話した。
緊張でいっぱいいっぱいの私に、美容師さんは「そう」とだけ言い、カットをはじめた。
カットとセットが終わり、手鏡で後ろ姿を見せてくれながら、「これくらいでどう?」と、相変わらず無愛想な美容師さんに、なぜか私は(これも本能?)「これでいいです。今の流行のようにもっと軽くできたらいいんだけど・・」と、言っても仕方のない甘えた言葉がでた。
その時美容師さんは、今までの不機嫌とも無愛想ともいえる表情を崩して、ニッと微笑んだ。それは決して嫌な感じの微笑みではなく、私の気持ちをホッとさせるものだった。

それから3ヶ月、やっぱり美容院に行く勇気がなかなか出ずに自分で少しづつカットしていたが、先週2度目の美容院の扉を開けたのだ。
また前の同じ美容師さんに当たり(2人しかいないので)、カットされた。今度はアザのことは口にしなかった。また言い出す勇気がなかったのと、頭の中のアザを見て思い出してもらえるのでは、という期待があったから。
カットが終わり、手鏡で後ろを見せてくれながら、「すそは薄くしたらいけなかったのよね」と言う美容師さんに、覚えていてもらえたうれしさでいっぱいになった。
そして、「はい。軽くできたらいいんだけど・・。厚いですよね?」と、また少し甘えた言葉がでた。「そうねぇ」という美容師さんに、「首が透けないぎりぎりの限界までもう少し軽くしてもらえますか?まだ大丈夫ですよね。微妙なんですけど・・。」と、大胆?なお願いをすると、美容師さんはコックリとうなずいて、希望通りの微妙な軽さに仕上げてくれた。
湿気でモジャかっていた猫っ毛のくせ毛と私の心も軽くなって、美容院を後にした。
これからはひと月半に一度は美容院に行こう。
黄昏の中車を走らせながら、幸せな気持ちでいっぱいだった。

7/26
2004

夏はアザもちさんにとっては厳しい季節である。半袖が着られないなどの切実な書き込みを読んで、夏はアザもちさんにとって、衣服制限を乗り越える季節でもあるようだ。

夏の礼服(喪服)にはとても困ってしまう。黒はファンデーションの色が目立ちやすいので、襟が真っ白になってしまうからだ。冬は黒のスカーフを使うなどなんとかなるのだが、夏にスカーフはおかしいし暑くてかなわない。先回は黒の裏地生地を、8mmほど外に出るように襟に縫い付けた。
さらさらの裏地生地ならそれほどファンデの汚れが目立たないので。
ただやっぱり、この暑いのになぜ襟まわりに変なものを縫い付けているのだろう?という疑問を持つ人がいるだろうが、そんなことは気にしてはいられない。
先回は自分で裏地生地の切れ端を適当に縫いつけたが、今回は洋裁が得意な母にお願いすることにした。要領を伝えて数日後に取りに行ったのだが、私が希望する機能をあまり果たさないものに出来上がっていた。一番ファンデが付きやすいあたりに、裏生地が出ていないのだ。
少しいらつく心を抑え、「お母さん、ここまで化粧をしているから、ここが大事なんだよ」と言い、結局、穏やかに「付けるのは自分でやり直すね」と、襟に合うように大きさを整え、端も綺麗にステッチされた裏生地をもらって帰宅した。
帰り道、車の中でなぜか涙がぽろぽろとこぼれた。私のために一生懸命裏生地をつけてくれた母、それでもアザや化粧の状態に合わず機能しなかった。私が子どもの頃は、アザが大きくなっていないかどうか心配で、定規で頻繁に測っていたという母も、私と離れて暮らす長い歳月の中、アザの状態もおぼつかなくなったのだろうか。
母を恨む気持ちなんて全くないが、なぜか孤独で寂しかった。そして綺麗に整えられた裏生地を見て母が不憫だった。

自分の気持ちを客観的に分析してみた。
18歳の時に治療の希望を含め、初めてアザのことを口にした。それ以来アザの話はタブーではなくなったのだが、だからといってアザについて細かいことを母と会話することはなく、アザに関することはほとんど自分で解決してきた。カバーマークをしている姿を見られるのは肉親でも躊躇があるので、私のカバーマーク風景も母は知らない。
今まで、アザのことで母を恨んだことは一度も無い。母の立場を自分に置き換えると、どんなに苦しいだろうという想像がつくから。ただ、もうずっと昔のことだが、絶対着ることができない白いブラウスを無頓着に勧められたり、カバーマークを落とすためのたくさんのティッシュペーパーを、少し節約して使いなさいと言われた時は、暗い気持ちになった。
それでも子どもの頃からぴったりと寄り添ってきた母は私の味方であり、この歳になっても親離れしていない自分があるのだろう。それが、もう私のアザのことにおぼつかなくなっている母を感じ、悲しかったのかもしれない。
どんな障害でもそうだが、アザもちさん特有の苦労はアザもちさんしか分からない(分かりにくい)。わからないのと愛情がないのとは別事である。母は私のことに関しては、今現在では私の夫に託して安堵をしているのだろう。それでなくても労わらなくてはいけない70歳を過ぎた親からは、いいかげん精神的な親離れをしないと情けないと感じた。
掲示板を訪れるアザもちさんは、自立心がしっかりしていると感じる人が多くて、帰宅途中車の中で涙がこぼれたという私に「ヘッ??」って思われることだろう。
自己分析をしたら恥ずかしくなってきた。

7/16
2004
最近のマイブームは「へのかっぱ」である。6月21日のともさんの書き込みを読んで、笑いのツボに入ってしまった。「アザが治るのなら痛みなど何でもない」という深い発言(超共感です)でありながら、「へのかっぱ」という表現に思わず笑いが込み上げて、それ以来頭の中が「へのかっぱ」でいっぱいになってしまった。へのかっぱの語源って何だろう??

初めてのレーザー治療は、29歳から約2年間、ダイレーザー治療を受けた。その頃は痛み止めがなく、今思い出してもかなり痛かったのだが、ともさんやオフホワイトさんと同じで、この痛みが治ることにつながるのなら、痛みさえいとおしいと思えた。
「cure」にも記したが、治療中、一発が先生の手に当たってしまい、先生は椅子ごとひっくり返ってしまったことがある。「本当に痛いねぇ」としみじみ言われ、優しい先生だったので更に色々と気を遣ってくださった。先生も看護師さんも良い方ばかりで、それは幸運だった。
病院帰りは、眉毛は焦げてなくなり、瞼も腫れてお岩さん状態で、本線と在来線2つを乗り継いで2時間以上をかけて帰宅した。治療費は全部で軽自動車1台半ぐらいをかけただろうか。
こんなに頑張れたのは、結婚を控えていたのと、先生や看護師さんのお陰だと今さらながら思う。

痛みもいとおしいと言ったが、一度だけ我慢が限界に達した時があった。ある日、レーザーをあてるのがいつものS先生ではなく、若い女性の助手先生だった。お嬢様のような捉えどころのない雰囲気をもった助手先生に、一抹の不安を感じたのだが、的中した。
いつもならもうとうに終わっている回数を過ぎても、レーザーを止める気配がなく、あまりの痛さに脂汗が滲み身体が小刻みに震え始めた。ある程度の時間の痛みは我慢できるが、それを超すと我慢の限界が訪れることを経験した。
もうだめだ、止めてくださいと言おうとした時、S先生が治療室に戻ってこられ、まだ治療が続いていることに驚いて、少し気色ばんで「もう止めなさい。すごく痛いんだよ。」と言われた。
ヒリヒリ焼け付くような痛みに、軟膏を塗ってもらった瞬間のひんやりとした感触と、あの時の痛みだけは今でも忘れられない。
治りたいという気持ちと、治療だという意識があるのであんなに我慢できたが、もしあれが拷問だったら、すぐにゲロ(白状)していたと思う。(笑) 「病は気から」イヤイヤ、「気は持ちよう」だとしみじみ思った。

初めてアザの中に肌色のスポットができた時は、掲示板にカキコされる方と同じように感動した。
このスポットがアザの部分全部にできれば完治である。ただし、あまりに範囲が広いため、まだらになるだけで完治にはほど遠かった。
「あざがあっても大丈夫」の掲示板に、治療効果は先生の丁寧さにもよるのでは?という書き込みがあったが、私も以前から感じていた。
同じアザの治療範囲なのに、日によってレーザー回数が少ない時があり、色素沈着が治まるとレーザーの間が隙間だらけだったりして、先生ってば今回は手を抜いたなと感じることがあった。
几帳面な先生は、丁寧に隙間なくレーザーを当ててくれるので、一回の治療の効果の差も大きいと思う。
「耳の中もお願いします」と言っても、申し訳程度に2・3発打ってくれるだけだったりして、できれば先生からレーザーを奪い取って自分で打ちたいくらいだ。こんなにアザの範囲が広いと耳の中などはどうでもいいように思われがちだが、本人にとってはそういう問題ではないのだよん。
ケッ! 自分でパンパンと打っても痛みなんかへのかっぱだい!!
7/9
2004
あってはならないことなのに、医師と患者の間にはいまだ上下関係がある。掲示板を読んで、理不尽な思いをされた方と、自分の経験とを重ね合わせて暗い気持ちになる。
私が大嫌いな言葉の一つに「理不尽」がある。道理の通らないことをされるというのは、ものすごくこたえるから。

十五年以上も前こと、都会の県庁で女性職員に怒鳴られたことがある。会社の入札指名参加願書類の揃え方が分からなくて、2回聴きなおしたところ、「何回同じことを言わせるの!」と怒鳴られたのだ。そばにいた男性職員が「あーあ」という顔をしていたが、誰も何も言ってくれなかった。
目の前に立ちはだかる権力に、若かった私は怯えて途方にくれたが、といって手ぶらで会社に帰るわけにはいかなかった。入札指名参加願申請をしないと会社は仕事がもらえないのだ。
なんとか理解してトボトボと会社に戻った。そして、なんだかものすごく理不尽を感じた。
この入札指名参加願申請の仕事は、私の上司の業務だった。しかし、気概のある中小企業の管理職や零細企業の社長が、我慢も限界に達して「何だその態度は!」と切れることがあるくらい、申請受付の時も職員の態度は横柄で、誇り高い私の上司も我慢できずに私を担当にしたようだった。
その後、官僚や役人が色々とバッシングされる世の中になってからは、職員の対応は慇懃に変わっていった。

役所というともうひとつ思い出すことがある。役場で臨時勤務をしていたことがあったのだが、市民からの問い合わせ電話の中には横柄なものもあるらしく、一人の男性職員がその都度、「僕は屈辱を感じる」と言って怒っていた。職員はサービス業の最たるものだという思いがある私には、「???」だった。
善し悪しは別として、以前ずっと勤めていた会社の地獄の研修は、一週間で自己を「無」にするため、プライドをズタズタにされるという研修で、途中で脱走する研修生もいた。
仕事とは我慢や忍耐の連続であり(勿論喜びもあります)、そう考えると、私が感じた理不尽も含め、仕事で感じる理不尽は、理不尽とはいわないのかもしれない。

本当の理不尽とは、突然犯罪に巻き込まれ愛する人を亡くす(守ってもらえるはずの警察までもが敵になるケースもある)、戦争で理由もなく殺される子どもたち、謂れのない差別、こういったものをいうのだろう。
江戸時代には身分制度があったが、生まれもって、身分の高い者に無礼打ちされても仕方がないという差別を受けた人々の、想像を超える理不尽のストレスを考えてみた。
事故や自然に関わることならば少しは諦めもつくかもしれないが、理不尽が介入する苦悩は決して諦め切れない。ボジティブ思考になんか絶対に切り替えられないのだ。
この思いが極限に達すると、革命が起こったり、テロの温床になったりもするのだろう。
理不尽は人間の文明と共に育ち、悲しいことに、人類が滅亡しない限りなくなることはないようである。  =なるべく理不尽のない社会を目指すために選挙投票に行かなくっちゃ。
7/2
2004

          親が抱える苦悩


      当事者ばかりでなく、親も苦しんでいます。

      人とは異なる見ためを背負わせたという負い目に苦しみ、

     周囲からの非難に脅かされます。

      治療のためとはいえ、恐怖にゆがむわが子の顔に

     心が悲鳴をあげています。
 
      代われるものなら代わってあげたいと何度思ったことでしょう。
 
      今はただ、わが子の成長に一喜一憂しながら、

     ずっと見守りつづけています。

                                  NPO法人 ユニークフェイス パンフレットより