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  bR

6/25
2004

辛いことばかりだった小学生時代を思い出し不本意なのだが、仕事で小学校の教科書と向き合うことが多い。17年度は改訂期に当たり、先々回改訂の社会科教科書には「五体不満足」の著者乙武洋匡さんが載っていた。ちょうど書籍がブームになって間もなくの頃だろう。日々変革していく社会の中では当たり前のことかもしれないが、改訂後の教科書にはもう乙武さんの姿はなかった。

私は「五体不満足」は読んだことがない。乙武さんが生まれた時、周囲の心配をよそにお母様が、第一声?「まあかわいい」と言われたということなどを、聞きかじっているだけである。
が、乙武さんの発言については、強く印象に残っていることがある。
数年前に大ヒットしたTVドラマ「ビューティフルライフ」(木村拓哉・常盤貴子主演)について、「キムタクの横に車椅子の女性が普通に自然にいる。そんな世の中になるといいな。」というようなことをコメントされていた。
これは障害者登場が特別のシチュエーションではなくて、どんなドラマの中でもごく普通の日常風景として溶け込むような社会になるといいな、という意味だと私は理解した。そして、乙武さんがお母様譲りのポジティブ青年であるとしても、それ以外に、乙武さんのこういった理想、希望、目指すものが「五体不満足」を生んだのか、という思いに勝手に至った。

「顔面漂流記」著者の石井氏はこう述べられている。『顔にアザがある人の写真を、雑誌などで見たことがないわけです。新聞の写真を見てもない。ニュースを見ると、社会は普通の顔をした人だけでできているかのような錯覚をしてしまう。情報産業の中心にいる人達が、おそらく、“普通”の顔をした人達なのでしょう。』
 http://www.tbs.co.jp/radio/np/eye/030614.html

普段接している情報化社会で見かけることがないものは、簡単には人々に受け入れられないであろう。アザ持ちさんを含め見た目に障害を持つ人の内面は、普通の人となんら変わりはないのに。
アザ持ちの私も世間一般、「冬ソナ」にハマる普通のおばさんである。
アザを隠して生きている私が言うことではないが、社会科教科書の「学校の周り探検隊」の子どもたちの写真の中に、アザもちさんの児童がいても何ら不自然でない社会というのは、理想論であろうか。
そういった意味で、「五体不満足」を読んで「なーんだ見た目は普通と違っても同じじゃないか」と、世間に知らしめた乙武さんの功績は大きいと思う。隣のお兄ちゃんみたく明るく爽やかな乙武さんに、障害者の暗く捉えられがちなイメージもかなり払拭されたであろう。
ただし、批判もある。石井氏の著書(肉体不平等)に、そして車椅子の市議会議員斎藤氏が言われていたが、障害者の苦労や苦悩は見過ごされ、ポジティブのみ強調されて終了というのでは、やはり問題なのかもしれない。その乙武さんも教科書から消えてしまった。

乙武さんを、障害を持つただのポジティブ青年と理解する人はいないと思うが、私は彼ほど満身創痍を感じる人はいない。以前、障害者用の自家用車を手に入れる夢を実現するという、いかにも行動的な乙武さんらしいTVドキュメンタリー番組を見た。その中で、こんな光景があった。
つかつかと乙武さんに近づいた見知らぬ小学生(高学年)男子が、「五体不満足でよかったこと、悪かったことって何ですか?」という質問をする。小学生が近づいてきた瞬間の少しこわばった表情は、見た目に障害を持つ人ならすぐに分かる心境だ。
子どもとはいえ(子どもだからこそかな)その唐突で、内容の薄い、失礼な質問に一瞬遠い目をした後、彼は当たり障りのない返答をした。答えた後の、少し伏目がちに、強い意志を湛えながらも暗く哀しみをおびた瞳を、カメラは数秒間静止で映していた。
満身創痍の彼の心に、私は涙がこぼれた。

6/19
2004
少女の頃、「朝目覚めたらどうかこのアザが消えていますように・・」と願って眠りについたが、そんな願いが叶えられることはないと分かって久しい。
今では逆に、もしこの人にアザがあったなら、どういう人生になっていただろうか?と考えることがある。といっても、松嶋菜々子にアザがあったなら女優の道はなかった、なんておバカな想像ではない。若い頃にはそういうおバカなことを考えたこともあったが、今では、「生きる道」ではなく「生き方」についての想像を馳せる。

先日会社で、皇太子殿下の教師をされていたことがあるという先生のお話を聴く機会があった。大学の講義を思い出させるような勉強会だったのだが、悲しいかな私には難しくて理解出来ないことが間々あった。
アルバイトで編集の助手雑用という身分の私は、会議机の先生の正面の「お誕生席」でありながら、仕事を離れ想像の世界へと入っていく。謙虚な話法ながらも、その奥に決して動じない何事も譲らないといった、只ならぬ強い意志を感じさせる先生に、もしこの人にアザがあったならば、この強い意志はどこへと向かっただろうということを考えた。(特に社会に向かって強い意志を持っておられる先生が、見た目のハンデにより社会からいわれのない理不尽を感じた時、その意志はどのようにどこへ向かうのだろうという漠然とした想像。) きっと、生きる道は同じでも、生き方は大きく違ったに違いない。
ずーっと昔には、校長(その前は教員だろう)の身分で、子どもたちに好んで授業をしていたというお話に、また想像が広がる。無邪気な子どもが苦手なアザ持ちさんには、教師の道はほとんどありえない。とすれば、生き方だけでなく、生きる道も変わっただろう・・・。果てしなく想像と空想の世界が広がっていった。

凡人の私には関係ないことだが、古今東西、凡庸でないあらゆる部門の著名人にアザがあったなら、クレオパトラの鼻どころではなく、歴史は大きく変わっていただろう・・。
ゲーテの小説や格言は生まれていなかったかもしれないし、彼の感性は、詩人ではなく哲学に向かったかもしれない。そして、20世紀最大の殺戮者アドルフヒトラーも、歴史の表舞台に立つことはなかったであろう。
6/12
2004
  僕の日常

  僕が道を歩く 電車に乗る レストランで食事をする
  どんな時でも ふと顔をあげると 好奇に満ちた視線が
  僕の顔にそそがれている
  時にはあからさまに 時には遠慮がちに

  そんな経験をしたことが ありますか?

  どこへ行っても 何をしていても 僕にはいつも視線がつきまとう
  僕が何か悪いことをしたんだろうか?

  そういえば
  僕の顔には大きな赤いアザがある でもそれだけ・・・

  ちいさな子どもが 僕の顔をじっと見る 
  そこにあるのは 純粋な驚きと興味と ほんの少しの恐怖?

  でも僕は
  その瞳でさえも
  まっすぐ見返すことができない・・・
   
                                  NPO法人 ユニークフェイス パンフレットより
6/7
2004
NPO法人ユニークフェイス会報bP7の連載コラム、顔面バカ一代(会長石井政之氏)に、「病気について調べたくない心理」というものがある。内容は、「自分がどのような理由で自分の病気のことを調べようとしていないのかを、よく知っておくことが大切。医療情報とどう接していくのが自分にとってベストなのかを考えることができるようになるから」というものである。すごーく納得した気になり、コラムの意図を飛び越えて、自分の病気単純性血管腫について調べまくった。

ナナさんの6/7の書き込みに、「30代から40代にそのような赤いいぼのようなものが出来る可能性を聞かされて驚いたことがあります」とあるが、それと同じようなことが説明されているサイトに出合った。転載禁止となっていないものをひとつ紹介すると、下記の通りである。
将来困るのは、単純性血管腫。 なぜかというと、血管を取り巻く結合組織が支えきれなくなってきて、次第にあざの赤みが増し、また年齢と共に体の面積が広くなる分は、あざの面積も大きくなっていることが考えられ、20歳を過ぎて中年期にさしかかったころあざの表面が盛り上がったり、凹凸ができたりするからです。美容上問題の出るのは中年期。 
http://www.hyogo.med.or.jp/hac/advice116.html
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/soudan/20010305sr22.htm
この血管腫のかたまりの如実な状態は、渡邊先生HPの「単純性血管腫」のページの男性であろう。 

「Cure」にも記したが、二十歳を過ぎた頃、真赤な8mmほどのイボができ、自分の顔はどうなってしまうのだろうかと怯え、何かの祟りにちがいないと真剣に思ったことがあった。
最後にレーザーを受けた際、先生から「もうこれ以上の効果は期待できないが、血管腫のかたまりの予防には効果的」と言われた時は、まだこれから血管腫のイボができる恐れがあるなんてことはこれっぽっちも思わず、ほとんど聞き流していた。なのに、どうやら血管腫は日々成長?しているらしく、皮膚の深いところまで達してしまうと、レーザーの効果も少なくなり、その理由で、レーザー治療は幼少期ほど効果大ということがいえるらしい。

このことは、ユニークフェイスの石井代表は、とっくの昔に承知されているらしく、石猿日記(6/3)に「最近、右ほほの血管腫がかゆい。いよいよ加齢にともなう血管腫の膨張・暴走が始まったか。」と書かれている。私には洞察しようもないくらい深い石井氏の心情は想像もできないが、あまりに身近に感じて(勝手に)いる人なので、自分のことのように心穏やかではない。

今までこんなに苦しんできたのにまだこんな困難があるなんて。とりあえず現状維持も許されないなんて。ショックで沈んだ後に、怒りになった。血管腫は病気である。決して見た目だけの問題ではないはずだ。それなのに保険が利かないレーザーがあるなんておかしいではないか。
Vbeamならば治療後のダメージも少なく、学校や会社をたくさん休むなどの障害が最小で治療できるのに。保険適用になれば、医療機器を置く病院も増え、不便な通院もしなくてよくなるかもしれない。誰か何とかしてくれ!!
ズルイ私は怒るだけで何にも行動に移せないのだけれど・・・。2年後には保険適用になるかもしれないというあづゅさんの朗報を頼りに、血管腫がこれ以上成長しないように祈るばかりだ。
6/5
2004

先々回、アザを持つ子の親御さんにメッセージをしたが、それと対でどうしてももうひとつしなければならない(したいと思う)メッセージがある。小さなお子さんにカバーメイクをと考えていらっしゃる親御さんへ、今しばらく考えていただけませんか?

治療については、病気を治療するのはごく自然なことで、それによってアザのある子を否定するということには120%ならないと思うが、自己確立のできていない小さな子にカバーメイクを施すというのは、どうであろうか。
カバーメイクでの生活を考えてみる。一度カバーメイクをして学校などの公にでれば、もうずっとカバーメイクの生活をしていくしかなくなるだろう。小さな子が隠し続けて生活していくことのストレスを考える。日常は勿論、体育で汗をかく水泳をするキャンプをする修学旅行で宿泊をする・・・。

みるてさんが管理人の
「アザがあっても大丈夫」のHP(Link参照)に、先生から水に顔をつけて泳ぐようにいわれても、カバーマークが剥げるため泳げなかったというエピソードがあり、私は暗い気持ちになった。http://www.d3.dion.ne.jp/~myrte/child.html

「顔面漂流記」の中(中学3年生からカバーマークを始め後に素顔で生きていく道を選んだ女性)では、次のような一節がある。              =以下本文よりそのまま=
『カバーマークの効力によって「奇異なものを見る目つきから開放された」彼女ははじめて自由を味わえるようになった。しかし、「アザそのものは、化粧によって私の顔からなくならない」という真実に気がつくのにあまり時間がかからなかった。
「私は、私の顔を人並みに見せるために化粧をしたのだが、化粧をすることによっておこる新たな悩みにとらわれた」これではいけないと思いながらも、クラスメートの前では化粧がわからないようにこそこそしてしまう、化粧がはげないようにいつも鏡をのぞいてしまう・・・・。
つまり、アザを隠せば隠すほど、「アザを隠している」という意識にふり回されるようになってしまったのだ。
「化粧という仮面を被ることによって、直接的には他者との関係を結ぶことができなくなってしまった」』


大人の私でさえも感じる化粧でアザを隠し続けるというストレス、子供にとっては耐え難いストレスを強いることになるのではないだろうか。
同じく「顔面漂流記」に次のような一節がある。
「0歳児の頃から同じ保育所に通っていたりすると、周りの子どもたちがはじめからその顔しか知らない。だから馴れてしまってその閉じられた社会ではいじめは起きにくい」
そして、なじみの集団から外れるクラス替えや進級などで、知らない子どもとの接触においていじめが起きやすいということであるが、そんな時、幼少期からの友人に救われるということもあるのではないだろうか。
保育園の学芸会の朝、母に化粧(薄いファンデーション)をされすごくイヤだった記憶があり、治療は前向きであるがカーバーメイクで隠すというのは後ろ向きであると、私は感じる。

大きくなり、いつか本人がカバーメイクを希望する時もあるだろう。高校か大学か社会人になってからか・・・。就職や利害関係が生じる社会生活では、カバーメイクも有効な事がたくさんある。そんな時に、お子さんの目いっぱいの力になってあげてください、と言いたい。
それでもやっぱり幼い頃からのカバーメイクをと望まれる親御さんには、どうかお子さんと同じアザをマジックで顔につくり、そこにカバーメイクをして、少なくとも一ヶ月間生活をしてみてください。「それでも問題なし」と思われてからの決行を、切に望みます。

=親御さんへのメッセージについてあとがき=
現在では子どもの化粧も普通になり、私の子どもの時とは時代が違います。アザの範囲によっても状況は異なると思いますし、メッセージをした後も管理人はやはり心穏やかではありません。上記は子ども時代を素顔で過ごし、19歳からカバーメイクを始めた経験からの考えです。カバーメイクで子ども時代を生活された方の意見や、その他の考えの書き込みをしていただければ幸いです。

5/31
2004

ダイエットに失敗したまま、「顔面漂流記」の著者石井政之さんがスペシャルトークの、車座バトルトークに参加した。参加といっても私はただ座って聞いていただけなのだが、疲労困憊の4時間だった。
ゲストには他に、車椅子の名古屋市議会議員斉藤亮人さんと作家・エッセイストの中村うさぎさん、飛び入り参加の漫画家の女性、それに自称ブス代表?として主催者から一人の女性が出演された。
参加者はたぶんほとんどが普通(いわゆる障害は持たない人)の人で、席に着いてまもなく、配られたものを見て無邪気に大きな声で言った後ろの席の男性の一声で、私は怯えた。カバーマークを始めてから久しく聞いていない忘れかけていた言葉だったので。

バトルトークは私の感想では混迷?という感じで、焦点がぼけてしまった印象である。「人はなぜ美しくなりたいのか」がテーマなのだが、まず、ブス(ブサイク)と、顔に障害のある人とを同じ土俵で論じることに無理があったのではないかな、と感じた。どんなにブスでも、子供がすれ違ってからまた後ろから追いかけてくるというようなことはないと思うから。
参加者からの質問も、私には「・・・?」というものが多くて、最後は何だか孤独に陥ってしまった。私を怯えさせた人が、また悪意のなさそうな無邪気な質問をしていたが、石井氏にバッサリと切られ(言われ)撃沈していた。
私は疲労したり緊張をすると睡魔に襲われるという体質で(大事な会議でも緊張しすぎると眠くなる)、最後は頭痛と眠気で本当に辛かった。
どうしてこんなに疲労するのか、ということを考えたのだが、こういうテーマを「普通の人」と向き合ったことがなかったからではないかな、というところに行き着いた。このHPは打てば響くように共感できる人たちの集まりで、悪い意味ではなく傷を舐めあうように癒される。車座バトルの中には、癒しの空間は1ミクロンもなかった。あらゆる場面で戦っているであろう石井さんは、どれだけ大変だろうかということを思った。

もうひとつ切実に感じたことがある。ブス(ブサイク)と顔の障害者の土俵は違うと感じたと記したが、このHPを始める時に、もしHPを訪問してくれる人があるのなら、土俵に制限があってはいけないと思っていた。
例えば治療やカバーメーク。アザ持ちさんの中でも様々で、治療やカバーメイクが困難な人もいるであろう。私自身、少しはレーザーが利いたとはいえ、それほど変わらない状態で、今現在ではもうこれ以上の効果は無理といわれているし、カバーメイクも可能ぎりぎりのアザの量(広範囲)で、もう少し広かったらカバーマークは断念していただろう。治療やメイクは、希望してもできない人や希望しない人もいるというデリケートな問題、ということなどを少し忘却していた自分を感じた。土俵に違いを感じれば、HPを訪れても、私が車座バトルトークで感じたように、孤独に立ち去る人もいるのではないだろうか。
ある意味色々と考えさせられた車座バトルトークであった。

最大の目的であった石井政之さんのサインはちゃんとゲットした。書籍に私の名前を入れていただいたものと、用意した色紙にも一枚。色紙に書かれた四字熟語?には「ヒント(秘密)あり」と、独りほくそ笑む私である。宝物になった。石井さんは著書や日記から想像していた通りの感じの人だった。

余談だが、車椅子の市議斉藤さんは私たちと同じ雰囲気を持つ普通の人なのだが、中村うさぎさん他東京から来た人?は不思議なエネルギッシュな雰囲気を持っていた。業界特有のものなのか、東京にいくとああなるのかはわからないが、ああではないと生き抜いていけないのかなと思うくらい不思議な感じだった。そういえば、子供の頃いつも私におんぶされていた従兄弟に、数年前祖母の告別式で十何年ぶりに会ったのだが、コピーライターとして東京で事務所を開いている彼に、同じような(種類はちょっと違うけど)不思議な雰囲気を感じて驚いた。
参加者にも出演者の中にも癒しの空間がなくて、疲れたなあ・・・。

日曜日は名古屋ドームで野球観戦をした。阪神ファンが半分を占めていて驚いた。今日は事前にお休みをとったが、明日からまた日常の始まりである。

5/24
2004
以前からアザ持ちさんのお母さんにメッセージしたいことがあったのだが、躊躇をしていた。
先日、ナナさんの書き込み(5/18)を読んで、その真摯なメッセージに、わたしの躊躇が吹っ飛んだ。痛みを心配して治療を躊躇しているアザ持ちさんの親に伝えたい。
大丈夫ですよ、親の愛情をたっぷり感じていれば、身体の痛みの記憶は消えるから。まもなく(入園や就学で)赤ちゃんは親の目の届かない世界へ独り立ちしていかなければならない。どうか独りで戦う日のために、できる限りの治療をしてあげてください。

私の母親も、幼い私を色々な治療で可哀相な思いをさせたと、胸を痛めていた。母は、幼い頃に病院通いで辛い思いをしたせいで、私は臆病で神経質になり、そのせいで背も伸びなかったと今でも信じている。けれど、性格も体格もただ単に両親の遺伝としか考えられない。姉と私の身長だって
4cmくらいしか違わないのだもの。(笑)

幼少期はアザの治療の他、大病や怪我が絶えなかった。都度痛い思いをしていたのだと思うが、その記憶はほとんどない。指の先5mm程を切断した時、顎を敷居に打ちつけた時、ブランコが後頭部に当たり流血した時、すべて何針かを縫う大怪我だったのだが、どれも痛みよりも覚えていることは、周りにいた人や状況、父や母の言葉や表情などである。
交通事故は、犬に追われて道に飛び出し、車にぶつかった瞬間だけスローモーションのような記憶がある。3歳くらいの時だ。頭蓋骨骨折だったそうだが、ぶつかった後の記憶は治療も含め全くない。
腸の病気の時は、オムツの中が血で真っ赤で、あと1時間気づくのが遅ければ命はなく、痛みでダレ回るようにハイハイしていたというが、勿論そんな幼い時の痛みの記憶は私にはない。
けれど、手術後どれくらいか、胸の前で両手を重ねて母親におっぱいをせがむ姿に、「かわいそうだから看護婦さんに聞いたら」という同室の人の助言で、母はすこーしだけ口を湿らせたそうなのだが、驚くことに、私はその口の渇きと母親に手を合わせた記憶だけはうっすらとあるのである。(幼い頃から食い意地がはっていたようだ。)

痛みの記憶や印象があまりないのは、思うに、いつも傍らで母親の愛情に守られていたからではないだろうか。痛い思いをしてもそれは決して虐待ではなく、自分のためだということが感じられたから。心の傷はなかなか癒せなくても、身体の痛みは記憶から消えていくのである。

「顔面漂流記」を開く。著者石井氏も幼い頃母親に連れられ、アザの治療に病院通いをする。
ドライアイス治療の痛みや恐怖についても記されているが、もっとも私の心に留まったのは、幼い石井氏に映った両親である。

=以下本文のまま=
治療が終わると、母と手をつないで病院の外へつながる廊下を歩いた。
「怪獣のオモチャを買って」と母にせがんだ。母はこの時ばかりは何でも買ってくれる。子ども心にそれはわかっていた。
   =中略=
母はうれしいような悲しいような表情をしていた。当時三十代前半の母の顔をはっきりと思い出すことはできないけれど、母もまた私と同じか、それ以上に苦しんでいたのだろう。
父が車で私たちを病院まで迎えに来てくれたことがあった。父はいらついて、不機嫌そうな顔つきをしていた。後部座席から父の後ろ姿を見つめながら、お父さんは何で怒っているのだろう、と考えた。ドライアイスの痛みをこらえるために右頬をおさえながら、アザがある自分は邪魔なのかもしれないと思った。
   =以下略=

97年9月28日石井氏のご両親は取材を受ける。
ドライアイス治療の体験についてのインタビュー   =本文よりそのまま=
取材: 病院へ行く時、お父さんがご自分のタクシーで送り迎えもときどきされていたようなん
     ですけれども。 
父:   そうなんですよ。わしは外で待っていても、帰ってくると泣いてくるものだからね、かわ
     いそうだった。
取材: 車の中でじっと待ってて、政之さんの姿が見えてくると。
父:   かわいそうだったですよ。でも、どうすることもできなかったからね。
父は泣き出した。号泣に近い。
   =以下略=  (詳しくは「顔面漂流記」をお読みください)
この取材に、石井氏のお兄さんも心配してそっと付き添っていた。アザを持つという不幸がありながらも、深い愛情でそだった石井氏の、現在の活躍は周知の通りである。

もし、母親の言うとおり、私に臆病なところや神経質なところがあるとすれば、それは悲しみと苦悩でいっぱいの母親と幼少期をぴったり過ごしたせいかもしれない。病院の帰り、幼い私を負ぶって、このまま川に飛び込んで死んでしまおうと思ったこともあるという母の心が、私の三つ子の魂に背中を通して伝わっていたのかもしれない。
5/14
2004
掲示板の書き込みを読んでいたら不意に涙があふれた。
情報をみんなのために逐一報告してくれる。仲間(仲間ですよね)の治療の経過や結果を、自分のことと同じに心配し、一喜一憂する。治療についての質問や不安に、もうほんとに一生懸命レスをしてくれる。。トゲトゲしている私の心に、涙と一緒にジワッと沁みて、優しい柔らかい感覚を覚えた。
こんなに共感し合える仲間に出会えるなんて。どんなに良い友人を持っていても、「アザのない人と共感することは難しい(この表現は顔面漂流記からのパクリです)」と、悲しかった過去の自分に教えてあげたい。
5/14
2004
宿題の「人はどうして美しくなりたいのか」を考えていたら、腹が立ってきた。だって美しいほうが生き易いに決まっているもの。カバーマークの使用前と使用後を考えても一目瞭然?である。
男性から声なんか掛けられたことがなかったのに、カバーマークをするようになってからは、好意を寄せられるようになった。私自身は何にも変わらないのに。人間不信に陥りそうだ。
「人はどうして美しくなりたいのか」よりも「人はどうして美しいものに惹かれるのか」の方が問題である。ただし、人間以外のもの、例えば花や自然や絵画、芸術といったものは別とする。何に惹かれ何を嫌うかは、個人のセンスや趣味の範ちゅうで、それによって誰も傷つけたりはしないから。
問題は人間の美醜である。「人はどうして美しくなりたいのか」「人はどうして美しいものに惹かれるのか」と考えていくと、「では美しいもの美しくないものの区別ってなんだ?」というところにたどり着く気がする。

間違いなく自分は美しくないと確信できることがある。俳優の故杉村春子さんが、「自分が楽な姿勢(形・型)は人から見て美しくなく、自分がキツイ姿勢は人から見て美しい。」というようなことを言われていた。杉村さんは和装で、いつも背筋をまっすぐに一糸乱れぬ姿勢でいらしたという。私は正座なんかはこのかたしたことがなく、姿勢の悪いことこの上ない。ご飯の時は我を忘れるので、夫に注意されることがある。(私ってブタか?!)

ただし、通常の形(型)以外はどんなことでも美しくないと決めてしまう概念は、とても危険であると思う。見た目に障害を持つ人同様、身体機能などの障害を持つ人にとって、生き難い社会になる。
美しい、美しくないってなんだろう??

5/7
2004
「顔面漂流記」の著者、石井政之さんに会える機会ができた。会えるといってもトークを聴くというものなのだが、サインが頂けそうなので、それに惹かれて参加希望をしてしまった。
おデブで石井さんに会うのは恥ずかしいと、現在ダイエット中である。友人に、「久々に会うというのならわかるが、初対面のためにダイエットというのは、全く意味がない」と笑われた。確かに知り合いでもないので、私が肥っていようがいまいが、石井さんにはなんの関心事ではないだろう。
その日のテーマは「人はどうして美しくなりたいのか」で、「聴講者もテーマについて事前に考えおきください」ということである。単純そうで奥が深いこのテーマは、私には言語にできないが、石井さんに会うために痩せたいという私の心理が、その答えのすべてのような気がしないでもない。美しくなりたいというのは、人に良く思われたいという、最も最短でシンプルな感情なのではないかな?

「顔面漂流記」の中に、『やっぱり美人をみるとハッとする。だから、顔にアザのある女性の深層に迫るのは、私にとってずっと頭の痛い問題だった』という一節がある。
美しければ「神田うの」のように天真爛漫に無邪気に(実際のうのさんはどうか知りませんが)生きていけるのに、と思うことがあるが、あれほどパーフェクトな美しさを持てたなら、怖いものなしであろう。唯一、誰にでも平等に残酷に訪れる加齢を除いては。

女性も美しい男性を見ればやっぱりハッとする。ただし、ただ美しい男性がよいかっていうと、そうではないだろう。例えば、世の中の価値観がすべてひっくり返ったとする。もしくは価値観が通用しない場所(孤島に流れ着くとか)で生きるとする。サバイバルの孤島では、美しいけれど何もできない自分勝手で冷たい男と生きていくのは遠慮したい。たくましく生き抜いていける強くやさしい男なら、容姿などは関係なしになるだろう。世の中の価値観がひっくり返っても生き抜いていける、強くやさしい男がいつの時代でも一番!と思うのだがどうだろうか。ただし、強くてやさしくて、その上美しかったら、もうまいった!ってかんじである。

神田うのの生涯はどうかわからないが、歴代の「ミスユニバース日本代表」の晩年が、意外と薄幸である人が多いと、以前何かで読んだことがある。
美しさと幸せは、一体であるとは一概に言えないようである。
4/25
2004
秀さんの、だんな様を「もの好きだなーぐらいにしか思っていませんでした」という書き込みに、何だかすごく微笑ましいものを感じた。私の夫ももの好きなのかな?と、ずーっと昔のことを思い返してみた。
結婚に至るまでは、ほんとうに色々と不安なことがいっぱいで、石橋を叩いて渡るどころか、叩きすぎて「割る」ような決意の結婚だったが、素顔を見せることに不思議と不安はほとんど無かった。
海外で初めて素顔を見せた時も、夫はごくごくフツーだった。もし万が一態度が一変したなら、二人きりの遠い海外で、どんなに心細く辛かったであろう。
結婚してから素顔を見せるというのも、今思えばデインジャラスであったと思う。間違えば、成田離婚ならぬ名古屋(小牧)離婚になってしまうのだから。私の家族は、おそらく日本でものすごく心配をしていたと思う。けれど、私はほんとうに不思議と不安がなかったのだ。

結婚当初、アザのことを全く気にしない夫を、「この人はもしかしたら色盲ではないか」と思ったことがあった。(勿論色盲ではありません) 
昨年の韓国旅行で、プライベートメイク(オルビスのカバーメイク)と、しっかりとしたカバーマークと、どちらの化粧をしようか迷った私は、夫に相談してみた。ところが、夫は私の化粧の使い分けにも今まで気づいていなくて、「楽な方でええやん」という一言で、プライベートメイクに決定した。
夫は決して何にでも無頓着ということは無くて、むしろかなりおしゃれな方である。私のヘンテコなファッションを注意することもあるし、そういえば韓国でも、自分のパンツと上着がミスマッチだったとかなり気にしていた。けれど、私のアザやメイクに関しては、「ええやん」なのである。夫のこんなところが、つくづく「愛すべき人類」だと思う。(私がどんどんデブっていくのには厳しい)

夫に素顔を見せるのに不安がなかったのは、「profile」にも書いたが、痛みのわかる人、傷つけられる人、という区別が本能的に身に付いたためかもしれない。不安を察知する人とは、「徳川300年」「中国4000年」付き合っても、素顔は見せられなかったと思う。
4/17
2004
イラクで人質となった日本人が無事全員開放されて、ホッとする今日である。
けれど、連日の新聞、ニュース、報道番組を見て、色々考えさせられる2週間であった。
14日前後に突然起きた、人質家族のバッシング記事には、驚きと同時にゾッとするものがあった。中傷電話や心ないはがきが届き、インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」に悪意に満ちた書き込みがされたという。
これについて中日新聞では、評論家が「憂さ晴らしをしたい人が、いじめやすい人を狙っている。目立つこと、自分にできないことへの一種の妬みだろうが、本当にひどい。」とコメントされていた。
他にジャーナリストが『「自衛隊撤退要請を圧殺しようと、組織的な嫌がらせがあったのではないか。これでは民主主義国家とはいえない」と警告した。』と書かれていた。

「2ちゃんねる」にはイヤな記憶がある。数年前ネット初心者だった私は、「五体不満足」の著者、乙武洋匡さんに関するHPがあったら訪れたいと検索をしているうちに「2ちゃんねる」に迷い込んでしまった。これがどういう類いのものかわからないまま2.3の書き込みを読んで、そのあまりの面白半分で悪意に満ちた内容に、未だかつてないくらいのいやーな気持ちと同時にゾッとした。目立つもの頑張っているものに対する訳のわからない憎悪とねたみ。姉と今日も電話で話したのだが、世の中にはこういう人がいるのだ。

以前からウイルスメールを頻繁に受けていたのだが、先日、一日に43件というウイルス添付メールが届いた。セキュリティに入っているので駆除されて大丈夫なのだが、暗澹たる気持ちになった。
何が楽しくてこんなものを送ってくるのだろうか。ウーン理解の外だ。
姉に「こういう類いのHPだから狙われるのかなあ・・」と言ったら、「HPはどれも同じように狙われるのだと思うよ。そうじゃなかったら悲しすぎるやん。」と姉。そうだよなあ。私のHPは特に検索登録をしているので狙われやすいのだ。ハッカーがいちいちHPの内容を読むわけないし。と納得。ちょっと被害妄想過ぎたようだ。けれど、昔素顔で生活していた頃に受けた、見知らぬ人からの突然の悪意が、少しトラウマになっているのかもしれない。

話はイラク邦人人質事件に戻るが、勝手にイラクに入った人は自己責任、そんな人まで救えないというようなことを政府は言っていた。ふーん、日本で北朝鮮に拉致された人も救えないのに、いったい政府は誰なら救えるのだろう?
救出に掛かった費用の一部負担を人質家族にと言った公明党の議員。機密費だなんだかんだと使いたい放題だったくせに、国民を救出する費用は惜しいのかしらん。だいたいあなたのお金でもないのに・・・。

本日の中日新聞にこんな投稿記事が載っていた。
「謝罪せよの」のファシズム怖い
 小泉政権はブッシュ政権のイラクへの軍事介入を支持し、私たち有権者はその小泉政権を支持しています。イラクで何が起きているのかを知り、虐げられた人々の苦しみを想像することは私たちの責任なのです。
 誘拐された方々がいてこそ、私たちは有権者の責任を果たすことができるのです。なぜなら彼らは私たちの目、耳となるべく、私たちと同じ責任感を持って危険に踏み込んでいったからです。それを、被害者の自己責任とはなんですか。迷惑を掛けたから謝罪せよとはどういうつもりですか。政治には口出しをするな、判断もするなというつもりですか。これは民主主義社会の姿ではありません。ファシズムの社会です。一人ひとりの方が、このことを自覚なさることを希望してやみません。
4/2
2004
=私が素顔で出会った人たち あとがき=

病院という囲まれた中で、素顔のまま少しの人との出会いがあった。思い返してみると、病院の中では見知らぬ人からも嫌な思いをしたことはなかった。素顔で構築できる人間関係、これが青空の下にもあるのなら・・・。

私には望みがある。朝、通勤途中で見かけるのだが、お年寄りが楽しそうにゲートボールをしている。もし幸運なことに、健康な状態で老後を迎えることができたなら、ぜひあの仲間に入りたいという望みだ。これがささやかそうでささやかでない。健康な身体で老後をスタートするのもそんなに容易ではなさそうだし、私には素顔で外に出られないというハンデがある。
想像をしてみる。深いしわに厚い化粧を塗りこめた姿で、青空の下運動をしても楽しいだろうか。
周りの人も引いてしまうだろう。そもそも、年老いてからは、色は隠せても凹凸やしわを強調してしまうカバーマークをすること自体が、物理的?に無理にちがいない。となると、老後はゲートボールを楽しむどころか、外出さえも困難になってしまう。カバーマークで生きてきた人達はいったいどんな晩年をおくったのだろう?という疑問が沸いてくる。(だれか調べてください。クスン)

「顔面漂流記」を開く。その中で紹介されている血管腫を持つ女性は(素顔で出会った人たち まえがき参照)、紆余曲折、素顔で生きていく決心をする。(詳しくは「顔面漂流記」をお読みください)
一度は化粧でアザを隠し、人の視線を避けて生きてきた人が、又素顔に戻る。どんな思いがあり、どれほどの勇気を必要としたか、想像に難くない。
けれど、カバーマークを始めてすぐに、「化粧という仮面を被ることによって、直接的には他者との関係を結ぶことができなくなってしまった」と感じた彼女は、長い長い歳月をかけて、素顔で生きていく勇気を獲得した。「顔面漂流記」は次のように結んでいる。
「アザのある顔が私の顔で、化粧をした顔は私の顔ではないと、自己回復できたのだ」

いつか私も青空の下、一点の曇りもない気持ちで、みんなとゲートボールがしたい。何しろ今は、素顔では突然の来客に対応できないため、親しいご近所付き合いも結べないのだから。
このHP「石井政之氏著書の薦め」の最後に、「これからどう生きていくか? ここで終わるか、ここからをスタートとするか、これは自分次第だと感じます。」と書いたが、この時、いつか必ず素顔で生きていこうと心に決めた。けれど、私にはもっともっと長い道のりになるに違いない。
ほんとうにそんな日が来るか、いつになるかはわからないが、そんな勇気が持てた時、このHPもいったん卒業かもしれない。
3/26
2004
=私が素顔で出会った人たち B=

「素顔で出会った人たちA」の翌年からまた数回入院をする。都会の有名専門医の病院の大部屋は、私同様ほとんどが一泊の入院で、みんなカーテンを締め切り、会話をすることはなかった。
しかし1度だけ、病院の半端な隅っこを利用した、不思議な形の2人部屋になったことがあった。
その部屋はあまりにも狭かったため、何日も前から入院しているという女性(Kさん)と、必然的に会話を交わすことになる。

IVFでやっと妊娠をしたのも束の間、その後の経過が思わしくなく入院となったというKさんと、やはりお互いの家庭のこと、身体のことなどを話した。穏やかな中にも、芯がしっかりとした感じのあるKさんは、家が自営業であること、お店をやりながら注射を打つための毎日の通院は、会社員同様とても大変だったことなどを話した。そして、Kさんは赤ちゃんが欲しいという願いの他に、何か周りのプレッシャーにも耐えている様子で、私は以前入院で出会ったYさんを思い出した。彼女も長男に嫁ぎ、大きなプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
そして、一番強く記憶に残っているのは、「たった一人の赤ちゃんを抱きしめたいという願いを、どうして神様は叶えてくれないのだろう・・・」と悲しい目をして言ったKさんの言葉である。
私のアザに容易に気づいたと思うが、たった一人の赤ちゃんを抱きしめたいという、切ない思いでいっぱいいっぱいの彼女には、「それどころではない」ことだったであろう。

余談だが、もし生死がかかった病気の人なら、更に「それどころ」ではないだろう。すべての人が身体と心に痛みや悩みを持ち「それどころではない」ことが、私が病院内ではさほどアザを意識せず、人間関係を構築できた要因のひとつかもしれない。そして、逆に「それどころではない」ことが、「アザがあって辛い、どうしてこんなに辛いのだろう」という閉塞感をみなが持ち、苦しんできたのにも関わらず、社会に放置されてきた要因ではないだろうか。

あれから数年、Kさんは無事出産して、幸せな日々を送っているだろうか。
最も人の望みというものはキリがなく、赤ちゃんができれば、最初は五体満足で元気に生まれることを願うのみなのだが、やがて健康に育てばそれでいい、優しい子に育てばいい、勉強ができると尚いいと、どんどんエスカレートしていき、大きくなって親の思うようにならないと、無念の思いを持ってしまうこともあるのだろう。
しかし、ハンデを持つ子の親の多くは、とにかく子供の幸せが一番と願い、とても真摯であるようだ。ただ、その真摯さは、悲しみと裏表であることが、切なく哀しいのだが。

当時は「それどころ」ではなかったが、育児の手も少し離れて落ち着いた時Kさんは、「そういえば昔、顔に赤アザがある人と出会ったことが・・」と、病院の隅っこの不思議な部屋で、一晩同室になった私のことを思い出してくれるかもしれない。
3/19
2004
掲示板の「スズさん」(3月15日)の書き込みを読んで、心に沁みた言葉があった。
 『さすがに時間をかけて濃い化粧をするのも嫌になってきました・・・。疲れてきました。』
そして、辛かった昨年の今頃を思い出した。

3月に新しい会社に就職をした。(訳あって3ケ月で辞めたのだけど)
仕事を覚えるのと環境に慣れるのに毎日必死だった中、風邪を引いた。気管支を壊し何日も声がほとんど出なくなった。仕事中咳が止まらなくなり、トイレに駆け込んでは吐くように咳いた。
それでも微熱程度だったので、入社したばかりの身で欠勤は避けようと休まなかった。
耳鼻科では気管支炎を通り越して「気管炎」になっているとの診断を受け、会社帰り通院もしたのだが、気管炎は高熱よりも身体にきつかった。弱り目にたたり目で、病院の帰り道、購入してまだ半月足らずの新車を傷つけた。

身体も限界にきていた翌朝、いつも通りカバーマークをしていたのだが、ボーッとしていたのだろう、普通肌とカバーマークの境をぼかすのを忘れ、フィニッシングパウダーをはたいてしまった。
カバーマークを使用している人ならよくわかると思うが、まるでツギハギのフランケンシュタインのような顔が鏡に映っていた。2分ほどボー然とした。そしてつくづく嫌になってしまった。
すずさんと同じように「疲れた」というのが一番ふさわしい言葉だった。これもカバーマークをしている人ならよくわかってもらえると思うが、一度パウダーをはたいたらもう修正はきかない。顔も首も耳も化粧がつながっているので、はじめから全部やり直しをしないといけないのだ。
そして、暫くボー然とした後、私は脱兎のごとく洗面所に駆け込み洗顔(洗首洗耳)をし、化粧のやり直しをした。「ああ、もうほとほと化粧には疲れた。嫌だ。」と思いながらも、化粧がなければ一歩も進めないことがわかっていたから。

そして、世の中には自分とは比べ物にならない障害で、一生懸命がんばっている人がいるのに、こんなことで弱音を吐いていては情けないと思うように努めた。 けれど、やっぱり何故毎朝こんなに時間をかけて厚い化粧をするのだろう・・。ということが澱のように心にたまっていた。
なんでしないといけないのだろう?いつまで続くのだろうか?
誰も答えてはくれない。(最も誰かからしろといわれたわけでもないし。)
そんな時、同じ痛みを持つ人からの『さすがに時間をかけて濃い化粧をするのも嫌になってきました・・・。疲れてきました。』という言葉が、心に染み渡った。