カメオンの言いたい放題 6
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7/18/2005
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私はどちらかというと無信仰者である。死後の世界もあまり信じていないし、葬祭も亡くなった人のためではなく、残された人の心を慰めるため、もしくはただのしきたりであると思っている。愛する人は亡き後の法要より、生きているうちに大切にしたい。
とはいえ、子どもの頃から母に悪いことをすると罰があたると教えられ、祖母が朝夕お経をあげていた環境の中、半端な信仰心もある。いわゆる苦しいときの神頼みも得意だ。また、仏壇の前に座ったりお香の匂いをかぐと心が癒される。これはたぶん標準的な日本人なのではないだろうか。
神社仏閣のお参りもわりと好きである。ただし、参拝のあとすぐに、かなり高い確率で原因不明の高熱を出す。これには夫も驚いて、神社仏閣にはあまり近づかないほうがいいと言う。不思議である。
一昨年お正月、福井県の永平寺に行った。そこでパネルにしてあった「道元禅師からのメッセージ」を読んで心を打たれ、冊子で販売されていたので購入した。宗教はさておき、すてきな言葉があるのでいくつかご紹介を。
| 無常ならざるもの 生まれたものは死に 会ったものは別れ 持ったものは失い 作ったものはこわれます 時は矢のように去っていきます すべてが「無常」です この世において 無常ならざるものはあるのでしょうか |
7/10/2005
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突然の病で義兄(あに)を亡くしてから、今年7月でちょうど10年になる。10年前、この悲しみが癒える日は来るのだろうか、あまりの悲しさと苦しさに、いっそ10年が1日で経ってしまえばいいと思った。
義兄が身内になった時、姉だけでなく家族みんなが大海原で大きな船に出合った思いがした。姉は義兄と出逢って、子どもの頃からずっとずっと訳もなく不安だったものが無くなったと言っていたが、家族みんなが同じだった。
父母をはじめ私たち家族はみんなが一様に弱く、お互いに愛情はあるのだが、弱さゆえにお互いを庇いながらもピリピリとしながら生きていた。そんな大海原を小船で揺れているような私たち家族にとって、強くて優しい義兄は大海の小島のようだった。
義兄が突然倒れた時、みんなは姉を真っ先に労わらないといけないことを忘れ、自分の悲しみに沈んでしまったくらいだ。自分の悲しみでいっぱいだった私は、病院の廊下のベンチで叔父に「**子もひとりになってしまうなあ・・・」と言われ、初めて姉のことを思い愕然とした。
義兄への思いは姉への思いへとスライドしていく。姉はどんな思いでいるのだろうかと・・・。
10年という歳月が経ったが、年月と共に義兄のことをより考えるようになった。というのは、今までの自分はあまりにも人間として未熟過ぎ、義兄の感じていることがわからなかった。歳を重ねるにつけ少しは成長しているのだろうか、先日「言いたい放題」したダウン症の子たちの話のように、突然目から鱗というように義兄の感じていたことが見えてくることがある。これから残りの人生で、少しずつ義兄に近づいていけるだろうか。
私の結婚後義兄は時々電話をくれた。ある時、早朝出勤の夫を布団の中で送り出す私に、義兄は会社で見た交通安全のビデオの話をした。朝「いってきます。」といって妻に見送られた夫は、交通事故に遭い帰らぬ人となってしまうという内容で、義兄は「何でも一期一会だよ。」と言った。
私は、勤務時間が普通と違う姉だって義兄を見送っていないだろうに、何で私にいうんだろう、私に言う前に姉に言えよと、可笑しくもあった。
後日姉から、義兄は会社でビデオを見た際大泣きしてしまい、「誰も泣いとらんのにオレひとりで泣いて、恥ずかしいだでいかんわ。」と言っていたと聞いた。義兄が泣くことなんか見たことがないのに、いかにも義兄らしい話で姉と微笑んだ。
平成に入って立て続けに次々と入院をした。姉と父母と私と、みんなの入院の心配や世話をして、最後に義兄は突然帰らぬ人になった。姉は義兄のことは人には滅多なことでは話さない。姉曰く「言っても**君のことは理解してもらうのは難しいから。」
あんな人がいたということ自体、私たちでさえ不思議である。接した人でしかわからない、人に話してもうまく伝わらなければ辛いだけである。姉に同感である。
ただ私は、時々目から鱗のように義兄を感じることができるたび、誰かに知って欲しい伝えたいと強く思うようになった。そして、アザのHPを持つようになりアザのことにふれるたび、義兄のことなしではいられないということも強く感じていた。
HPに義兄のことを載せるに当たっては、姉の了解を得た。姉が悲しみを増すのではないかという不安と、勝手に私が感じている義兄を載せていいものだろうかという心配があったから。
「私には私の**君への思いがあるから、それを載せるね」といったら、姉は快諾(たぶん)してくれた。
10年前、阪神大震災やサリン事件で日本は揺れていた。災害や事件に巻き込まれた人々をTVで見ても、そこには未熟な自分がいた。ある日突然大切な人を亡くした時、やっと人々の悲しみが自分のことのように心に沁みた。
大切な人は明日も今日と同じように変わらず傍にいることを疑わなかった私は、ずっと生きることをなめていた。
あの頃悲しみの余り、いつの時代からも繰り返されている人々の悲しみはどこへいくのだろうと、観念的なことを考えたが、100年経てば悲しみは人々と共に総入れ替えである。そうやって時は流れていくのだろう。
7/2/2005
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NPO法人ユニークフェイスのHPに、ブログ「ユニークフェイス日誌」が新しくアップされた。http://uniqueface.cocolog-nifty.com/
事務局長の外川浩子さんと石井代表が交代で書き込みされるとのこと。楽しみだ。早速7月1日の「当事者の気持ち」(石井代表)というのを読んで、フムフムと思った。
日本社会というのは、相手の意見が自分のそれとは違っていても表面的には合わす傾向がありますね。とくに女性にその傾向が顕著だと思います。カモフラージュメイクについても同様です。そのメイクが気に入らなくても、そのようなそぶりをちらとも見せない、メイク関係者にクレームをいわないまま、「ありがとうございました」といってしまう。メイクする側は自分のメイクが受け入れられたと誤解する。よって、技術が向上しない。 (部分抜粋)
まるで自分のことを言われているかのようである。
初めてカバーマークの指導を受けた際、指導員の方から「どんな色にしますか?」と聞かれて、緊張のあまり「オークルで」と答えてしまった。色白の自分の肌にオークルは無理があるのだが、流石指導員の方はオークルのファンデできれいに仕上げてくれた。けれど家に帰って自分でメイクをすると、肌色に合わず不自然になってしまう。結局、基本色のファンデを買いなおした。あれから20年以上経つ。あの時基本色でのメイクを習っていたら、もっと上手にメイクできているのでは?と、たまーに思うことがあるのだが、何回あの時に戻っても緊張のあまり同じことの繰り返しだろう。
美容院も然りである。「イヤー!、裾をそんなにすいちゃだめー」と思いながら、ストップがかけられない。見る見るショートにされていく髪を見ながら胃がキリキリするのに、何も言えないというのは日本人だからかな?? そういえば会社の後輩に、美容師さんの手元をジッと見てるのはいけないような気がして、見たくもない雑誌に目を落としているという子がいた。あまりの気の遣いようにびっくりしたが、これも日本人だからだろうか。
迎合する自分を嫌だ!と思う時がある。
昨年、石井代表がスペシャルトークの車座バトルトークに行った際、石井代表の歯に衣着せぬ物言いに驚いたが、石井代表はそうやってたくさんの理不尽と闘ってきたのだろう。迎合なんかしていたら、ユニークフェイスのたくさんの人たちを守れやしない。
色々と思いを馳せていると、美容院では何も言えず「ありがとうございました」と帰ってくるくせに、家で夫にブチブチと泣き言を言っている自分が卑怯で情けなくなる・・・。
ブログの最後は、『その悪循環を断ち切るには、当事者が本音を語る必要があります。そうなったときカモフラージュメイクは、もっと価値のあるものに生まれ変わると思います。そして当事者も自律することの大切さを学ぶ事になるでしょう』という言葉で括られていた。
ところで、今の私にとってカモフラージュメイクは、喉に刺さったトゲのようなものである。チクチクと日々を苦しめる。特にこの暑い季節、首にまでする分厚い面倒なメイクはほんとうにうんざりだ。
カモフラージュメイクの指導だけでなく、頭皮や首にアザを持つ当事者のための美容師さんがいると良いなあと思うこの頃だ。
6/22/2005
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カバーマークをするようになってから、もし睡眠中に地震や火事がおきても、スッピンで外にでるくらいなら家の中で死んでしまおうと本気で思っていた。義兄に出会い、初めて他人に素顔を見せることができた私は、やっぱり地震や火事の時は外に逃げようと思えるようになった。
6/12/2005
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結婚間近の頃、全身に原因不明の発疹ができた。あれは何だったのだろう?とずっと不思議だったのだが、最近発疹ができる心の病があることを知って納得した。結婚を前に心ときめいてはいたものの、やはり気づかないストレス(マリッジブルーというのかな)を感じていたようだ。
結婚に当たっては母が大奮闘をしてくれた。父は「(アザを)承知してくれてるといってもなあ・・・」と、最後まで結婚に関しては不安にしていたと母から聞いた。勿論母も心配をしていたには違いないが、保護者である自分たち親はいつかは先に逝く。その前になんとか幸せに嫁がせたいと願っていたのだろう。母親の方が決断力と強い意志を持っていた。
あれから十数年、両親はほんとうに年老いて、労わらなければならない立場になった。
それでも(遺伝であるのだが)自分にそっくりな性格の母にうんざりすることがあり、なかなか親孝行はできない。
ただひとつだけ、このことを思い出すと自然に涙が込み上げ、母親に優しい気持ちになれることがある。
花嫁道具や細々とした色々な仕度を一生懸命整えてくれていた母から、結婚式も間近に迫ったある日、「もし結婚が少しでも不安で心配だったら、いつでも止めていいから。」と言われた。私は不安はたくさんあったが、将来の夫のことは信頼していたので、「大丈夫だよ。」と答えた。けれどもその時、母親の大きな無償の愛を心から感じた。
式場予約も済み、ご近所や親戚にたくさんのお祝いを貰い、仲人さんも含めた結納も済んでいる今、結婚を取りやめるなんてとんでもないことなのに、そんなことよりも私の幸せが一番と思ったのだろう。
たぶん、私の自分でも気づかない不安を母は感じ取っていたのかもしれない。時々ちょこっとだけ見栄張りの母だけど、世間体の欠片もなく、というより心から私の幸せが一番と思って出た言葉だと感じた。
あの時のことを思い出すと、今キーボードを打ちながらも涙がにじむ。私はタラコひと腹でご飯2杯は食べられるが、このことだけで100回くらいは母親に優しい気持ちになれそうだ。
ただし優しい気持ちにはなれるが、親孝行できるかどうかは別だけど。やっぱり親不孝ものでゴメンなさい。
けれど、母があんなに奮闘してくれた結婚で私は幸せになり、今では両親ともとても安堵している。これだけでも親孝行じゃないかな。ちがうか・・・。
話はそれるが、受けた温かさや優しい言葉はなかなか忘れることはない。逆に一度聞いてしまった冷たい言葉や自分が発してしまった暴言も、忘れることや取り消すことができない。
因果応報、なるべく優しい足跡を残していきたいと思う。けれど私の場合、心からの優しさではなく魂胆があるか、もしくは自分を守るための迎合であることの方が多い。
あの時の母の言葉のような無償の愛は、親だからこそなのだろうか。
6/12/2005
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少し遅ればせだが、5月11日の石井政之代表のHPに、NPO法人ユニークフェイスの新しい事務所が開設されたとあった。何だか感無量である。
思い起こせばNPOユニークフェイスの存在を知るまでは、アザのことに関してはずっと孤独だった。愛しんでくれる家族がいるのに何故こんなに閉塞しているのだろうかという疑問は、以前「言いたい放題」でも記したが、石井代表のHPにリンクされている「下村健一の目のツケドコロ」
(http://www.tbs.co.jp/radio/np/eye/030614.html)を読んで納得感動した。
石井:誰からも隠せない場所に、アザなり傷が見えてしまっている。だからこそ社会的な関係性の中で苦しみが出て来ます。≪見えている≫という事がどれだけ大変か。それがなかなか伝わらないんです。なんで私だけが? 何故顔にアザがあるとこんなに苦しむのか? 誰も教えてくれない。隠蔽された苦悩があるわけですね。
ここでは隠せないアザについてのみ触れているが、普段カバーマークでアザを隠している私は、見えないところにあるアザもちさんの苦悩も痛いほどわかる。
見た目が普通と違うというハンデは長い間ダブー視され、個々が孤立していた中、ユニークフェイス誕生は私にとって劇的なものだった。そのユニークフェイスの新たな出発である。気持ち的には100万円くらい寄付してお祝いしたいのだが、時給850円のアルバイトの身なので難しい。大富豪でないのが残念!
ナナさんの、『アザも人生に与えられた試練なのかもしれませんが、それ以外にも病気、家族の病気、事故、死、仕事、伴侶の浮気や裏切り、様々なことがあります。』を読んで共感しきりである。
本当に人生には色んな試練がたくさんあり、いつ自分の身に起こるかわからない。当事者になって初めて気づく試練。社会には色々な当事者同士の集まりや会があるようだが、決して傷の舐めあいではなく意義のあるものである。
そしてHPを開設してから、たくさんの同じ痛みを持つ方(仲間)との繋がりができた。掲示板の書き込みを読んで胸いっぱいに思うところはあるのだが、言葉にならなくてレスできないことの方が多く、とても心苦しい。ほんとうにごめんなさい。
新事務所開設と聞いて、石井氏の活動や著書に出合って、「長い長い間旅をしてやっとここにたどり着いた」と感じた時のことを思い起こしている。
5/22/2005
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「中京テレビ・ブリヂストン・レディースオープン」の二日目を観戦に行った。朝が早いし、この紫外線が強い季節戸外は危険だし・・・といったことで二の足を踏んでいたが、夫の「たまには外を歩かないと」という言葉に促された。
初夏を思わせる日差しの中、ゴルフ場のアップダウンを少し歩くと汗が噴出す。宮里藍ちゃん人気のせいかたくさんのギャラリーが楽しそうに歩き回る中、日頃運動不足の私はひとりフーフーと言いながら歩いた。
それでも木陰に入ると、涼しいマイナスイオンたっぷりの風がそよいで気持ちいい。
1日目トップのアマチュア選手、諸見里しのぶちゃんのスタートを間近に見た。お父さんお母さんらしき人に「がんばって」と励まされていたが、しのぶちゃんは「胃が痛いー」と言っていた。ほんとうにアマチュアっぽくて微笑ましい。
藍ちゃんのお父さんにも遇った。人がすれ違うぐらいの狭い場所で、私たちの前を通り過ぎた。あっと思った瞬間、夫が「がんばってください!」とお父さんに声を掛けて、私はまたびっくり。
お父さんもちょっとびっくりした感じで、「どうも」と振り返った。私は少し恥ずかしかったが、夫は何かを計算したり企てたりすることができないたちで、お父さんを見て思わず素直な気持ちがそのまま言葉になってしまったのだろう。
お父さんを少し驚かせたかもしれないが、「がんばってください」には夫の素直さが溢れていて、お父さんを不快にはしなかったと思う(でも頑張るのはお父さんじゃなくて藍ちゃんだよね・・・)。その後も選手のプレイに「ナイスショット!」と、イの一番に声を掛けていた。いいやつだ。
もうひとつ微笑ましいことがあった。隣で立ち見をしていた小学校中学年ぐらいの女の子に足を踏まれ、すぐさま「ごめんなさい」と言われた。私はちょっと女の子に視線を移して、ニッっと笑った。この場合何か声を掛けて返すのが大人だったかなあと反省しきり。
隣に女の子がいたことにも気づかなかったが、今時、こんなにもすぐさま自然に「ごめんなさい」と謝れる子がいるなんて。別の意味で親の顔が見てみたい。
ブリヂストンレディースの最終はどうなるだろうか。藍ちゃんは可愛いけれどセンスも洗練され、もうトップアスリートとしてのオーラを発していた。私的には、まだダイヤモンド原石のようなしのぶちゃんを応援しようかな。
5/16/2005
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私は決断力が皆無なため、何かを選択するということが大の苦手だ。けれどほんっとにくだらないのだけど、架空の二択をする癖がある。楽しいパターン辛いパターンなど色々あるのだが、例えば辛いパターンは、「世の中で一番嫌いなゴキブリを触るか、世の中で一番怖い蛇を首に巻くかどちらかしないといけなかったら、どちらを選ぶか。」など・・・。
考えていると没頭してしまい、ウーンとものすごく苦しんだ挙句、そんなことを考えるのは馬鹿馬鹿しいことに気づきホッとする。楽しい二択は我に返った後、少し空しい・・・。ほんっとにくだらねえー。
そして、何度も空想してしまう二択がある。「首のアザと顔のアザ、神様がどちらかひとつだけ消してくれるとしたらどちらを選ぶか??」 これに悩みだすと、時を忘れてしまう。
『ほぼ7割を覆う首のアザがなかったら、どんなにか化粧が楽だろう。肩凝りや洋服選びに苦労することもなくなる。社員旅行や研修が大変だったのは、首にもアザがあったからだ。アザの治療の時も、顔だけなら病院で化粧を落とすことができる。ああやっぱり首かな。
いやまてよ。もし首だけのアザなら突然の来客の時、ハイネックの洋服やスカーフで隠して出ることができる。それならばひとりきりの休日、突然の来客にビクビクしなくてすむ。ビジュアル的にもパッと見、首だけのアザの方がよっぽどよい。
カバーマーク使用に限界がくる年寄りになった時、アザは首よりも顔に無いほうがいいに決まっている。やっぱり顔だ。
でもまてよ・・・、ウーンむずかしい・・・・。』
焼け付くような切なさに身もだえした後、ハッと我に返る。「またくだらない空想をしてしまったよ・・・・。」
ああ、顔か首かどちらかひとつだけのアザだったらどんなにかよかったのに! ぢぐじょー・・・・!!』
もう40年も生きているのに、こんなふうにして歳月は過ぎていく・・・。情けない。
5/8/2005
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昔、因果応報という言葉の意味を先生から聞いた。物事の結果には必ず原因があり、人は生き様によって色々な因という種を撒き、それが果になるということである。ちなみに辞書を引くと、『仏語、人間の行いの善悪に応じて必ずその報いがあらわれるということ』とあるが、先生が教えてくれた意味は神がかったものではない。
それまで、因果応報とは何か神様のバチのようなものだと思っていた私は、ものすごく納得した。人は不幸があると、何かの災いか神様のバチではないかと思ってしまうことがあるが、そんなことがあるはずもなく、この世で起こることは運命という名の偶然であるか、もしくは因果応報のどちらかである。運命という名の偶然は悲しいかなどうしようもないが、因果応報は自分しだいであるようだ。
第二次大戦中、日本は自国民だけでなくたくさんの国の人々を不幸にした。今日でも反日運動が起こり、一度撒いてしまった悪い因からは、半世紀以上経っても逃れられない。戦後日本は、本当に心からアジア諸国に謝罪をしてきたのかという有識者がいて、因果は戦後の対応も引きずっているのかもしれない。歪んだ愛国教育を推し進めている中国も、いずれそれが悪い因の種にならないだろうか・・・。
JR西日本の事故は、報道されている企業の体質を考えれば、因果応報そのもののようだ。
運命とは済ませられない偶然で巻き込まれた、たくさんの犠牲者や親族の方はどんなにやりきれないだろうか・・・。
国も社会も企業も家も個人も、因果応報からは逃れられない。人類がしてきたこと、していることの因果応報を考えると恐ろしくなる。勿論良い因の種を撒いていれば、いつか良い報い(果)となる。
私は事あるごとに、これは偶然(運命)か因果応報かと考える。ちゃらんぽらんな日常を過ごしていると、ある日ドンと報いを受けることがあり、身に覚えのあることばかりで因果応報である。最近車両事故を起こしてしまったが、駐車の際いつもモノグサに頭から突っ込んで駐車していた因果応報である。ちゃんとバック駐車していれば事故は防げたのに・・・。
人生の終わりは因果応報の集大成である。偶然(運命)ではない終焉をむかえるとしたら、自分の最期はどんなだろうか。不義理で、人を大切にしてこなかった私の人生の終焉は、孤独かもしれない。それでも自分が歩んできた因果応報だから仕方ないなあ・・・・。
ちなみに、仏教でいうところの因果応報は、前世、現世、来世をまたぐという考えもあるそうだが、身に覚えのない前世の因果応報は勘弁してほしい。おそらく道徳的な戒めの教えが多分にあるのだろう。それはそれで理解できるが、以前母は私のアザを前世の報いと言われたことがあるそうで、そういう方向に走ってしまうのは危険である。
現世の因果は現世で応報を受け、終了である。
4/24/2005
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=私が出遭ったアザもちさん C =
すごく印象に残っているのだが、どれくらい前だったのか思い出せない。20代の時だったのか30代の時だったのか、結婚前か結婚後か・・・。通勤電車の中でアザもちさんと出逢った。
高校生だろう、友人2人と電車に乗り込んできた。朝だったのか夕方だったのかもしっかりと思い出せないが、(たぶん夕日ではなく)朝日にキラキラと照らされたアザもちさんはとても綺麗だった。キレイといったが、男子である。しっかりとした体躯に、やさしげな美しい大人びた雰囲気をもっていた。
アザは制服の白い半袖からのびた両腕に赤く、朝日に照らされてキラキラとしていた。アザをこんなに美しいと思ったことは初めてだった。アザもちの少年の美しさに、友人の2人が霞んでいた。
美しいと感じたひとつに、まだ少年の容姿であるにもかかわらず、何かを悟っているような大人びた雰囲気があったからだと思う。その深みはアザと関係があるのだろうか。
衣服で隠れている身体のアザについて思いを馳せる。自分の普段衣服で隠れているアザが人目に触れるのは、健康診断といえどもストレスになる。普段隠れているアザだからこそ、日常に、都度に、苦労や困難がつきまとうことは多いだろう。顔面のアザと身体のアザ。それぞれに色々な思いがあるだろう。
それでも、アザを美しいと感じたことは初めてだった。少年は今では大人になって、どんな人生を歩んでいるのだろうか・・・。
出逢ったのがいつ頃だったのか思い出せないのに、あの時の電車の中の風景は忘れられない。
4/10/2005
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もう15年以上も昔の話だが、姉と義兄の新しい家探しに私はついて行くことがあった。
義兄が新しい家でチェックしていたのは、いづれ同居するであろう父母の部屋と、実家の仏壇を入れる床の間があること、そして私の部屋であった。私は好き勝手に、3階が屋根裏のようになったシンデレラ部屋がほしいなどと言っていたが、義兄は真剣に私の面倒までみようと思っていたようである。
私に初めての縁談がきた時、母づてに「みんなで一緒に暮らせばいいのに」と言っていたと聞いた。見も知らぬ人との縁談が心配だったのだろう。
それでも私には何も言わず、お見合いの日に着ていく私のスーツのボタンを付け直してくれた。たまたまお見合いの日に実家に来ていたのだが、「なんでオレがこんなことせないかん」と言いながら、大きな手で慣れない縫い針を使っていた。
新しい家が決まるよりも私の結婚の方が早かった。
初めて将来の夫を紹介するため家に遊びにいった時、義兄と姉は(姉は会社を早退して)たくさんのご馳走を並べて迎えてくれた。夫は途中、緊張のあまり車の中でお腹が痛くなってしまったのだが、釣りバカ日記の浜ちゃんのように愉快な義兄にホッとして、1ミクロンの遠慮もなくテーブルの上の大量のご馳走を平らげた。
その晩はそのまま泊まった。その頃私はレーザー治療の真っ只中で、顔半分に大きなガーゼを当てていた。
翌朝、夫は8時始まりの会社に遅れそうになり、慌しく出て行った。そのことが義兄をすごく心配させた。義兄は、会社は9時始まりだと思い込んでいて、夫がトットと出て行ってしまった原因を色々と心配したようだ。もしかしたら、お風呂上り私のガーゼの隙間から見えたアザが原因なのでは・・と、色々と心配したのかもしれない。
その後、夫の会社が8時始まりで急いでいたことがわかって、「そうかー!」とうれしそうにホッとしていた。
結婚前、夫は一度だけ義兄に二人きりで飲みに誘われたことがある。
どんな話をしたのかは、「お義父さんお義母さんはオレが面倒をみるけれど、もし自分が先に逝くようなことがあった時はよろしく頼む」と言われたことだけ、夫から言葉少なに聞いた。他にどんな話があったのか無かったのかはわからないが、あったとしても私に話すことなく、義兄と二人だけの話としてしまっているだろう。
義兄は、「あいつはいいやつだなあ」と言って笑っていた。
いつもみんなの心配をして温かかった義兄。温かさを忘れることなんて決してないけれど、義兄に恥ずかしくない生き方をしているかどうか・・・・。していないことが、時々胸を切なくする。
4/2/2005
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すごく遅まきだが、最近ダ・ヴィンチ・コードを題材としたノンフィクション番組を観て、書籍「ダ・ヴィンチ・コード」というのがあるのを知った。まだ読んでいないのだが、2つのTV番組で十分に堪能した。
以前「言いたい放題」にもしたが、私は遠藤周作氏が理解するイエス・キリスト像が大好きである。遠藤氏のイエスと「ダ・ヴィンチ・コード」のイエスとを絡めると、私の中でぴったりと符合し感動してしまった。
やはりイエスは慈愛溢れる生身の人間だったのだ。
ダヴィンチが絵に秘めた暗号とは、マグダラのマリアという娼婦であった女性(イエスに伴い、イエスの一番の理解者であったよう)である。イエスの子を宿し、密かに産んだという事実を教会は何世紀もひた隠しにしてきた。
聖母マリアとは対照的に、父親のヨゼフはほとんど教会の中では抹殺されているのを考えれば、神の子イエスに子どもというのは教会では許しがたいことなのだろう。
しかし、優れた科学者でもあるダヴィンチ他有識者は、ひっそりと後世に暗号として残していたのだ。
遠藤氏が理解するイエスは、人の痛みや苦しみを我がことと同じに感じ、みんなの悲しみを背負って『実際の年よりもずっと老けて見え、疲れていた』とあるが、数年前科学者らによって分析されたイエスは、しっかりとした体躯でありいつも力に満ちていたとあった。私は遠藤氏のイエスとはあまりに違うため受け入れがたかったが、ある時ハタと合点した。
それは、義兄と合致したからである。
義兄はいつも快活で朝日とともに目覚め、人のために奔走していた。義兄にとってそれは人のためではなく自分の喜びのようであり、希望に満ち溢れていた。けれど人の痛みに敏感で、私の閉塞や痛みも家族よりもそっと感じてくれていた。人の痛みを感じる時、大きな背中や快活な中にふっと悲しげな表情を見せることがあったが、いつも力強くやさしかった。
姉が「**君がいれば何にも不安なことはない。私の人生のすべて」と言っていたが、義兄は私や父母も深く愛してくれた。今でも考える。義兄はどのように生まれ育ったのだろうかと・・・。あの優しさの源は何なのだろう・・・。
考えるに、慈愛に満ちた人は自身が強いのだろう。自身が強くなければ人を労わるどころではない。
強さと優しさは一対であるのかもしれない。
生身の人間というイエスは教会では許しがたいことかもしれないが、奇跡や慈愛はいつの時も人から溢れるものではないだろうか。義兄のことを考える時、そう思わずにはいられない。