カメオンの言いたい放題 11
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12/31/2006 
私の住む田舎は晴天の穏やかな年の暮れとなりました。
世界中、人々の一年は悲喜こもごもであったでしょうが、また夜が明け明日がきます。生かされていることと今日の一日に感謝して明日を迎えたいと思います。
カメオンのHPに訪れてくださった皆さん。今年一年本当にありがとうございました。
皆さまに支えられながら来年もマイペースで運営していきたいと思っています。
どうか良いお年をお迎えください。
12/25/2006 
今年、映画「男はつらいよ」がNHKのBSで放送されている。先週44作の「寅次郎の告白」が放送され、来年の1月で48作が終わる。
42作目から甥っこの満男とガールフレンドの泉ちゃんが絡むようになると、破天荒だった寅さんが何だか穏やかになり、夫はつまらないと言っている。けれど、伯父さんを見つめる満男の台詞の深さにハッとして、私は42作以降の方が好きかもしれない。
44作目にこんなセリフがあった。
満男「あの伯父さんはね、手の届かない女の人には夢中になるんだけど、
その人が伯父さんのことを好きになるとあわてて逃げ出すんだよ。
今までに何べんもそんなことがあってその度に、オレのおふくろは泣いてたよ。
『ばかね、お兄ちゃんは…』って」
寅さんシリーズは「あゝ失恋48連発」と銘打っているが、明らかに一割は寅さんの方がマドンナを振っている。柴又の駅で寅さんに気持ちをはぐらかされ、悲しみで張り裂けそうに頷いて電車に乗ったマドンナもいた。
もう十何年も前になるが、ある雑誌に「寅は不能」としているコラムがあった。これはふざけている訳ではなく真剣に分析してのコラムである。
面倒をみてきたリリーに思いを打ち明けられ、男女の立場になるやいなやはぐらかして逃げ出す寅。コラムは、寅を通じて山田洋次監督の生い立ちや女性観にも触れていた。
あれから十数年、私の潜在意識の中には「寅は不能」というものがあり、そんな先入観で寅の恋愛を物悲しく観ていた。
十数年後、44作目の満男のセリフでふと、「寅さんはアザもちなのかもしれない」と思った。
アザもちさん(隠している)は思いが成就した後の困難が大きい。どうやってアザもちであることを伝えるか、いつ見せるか・・・。それを考えると恋愛の先の一歩のハードルが高くて、勇気がなければ逃げ出すしかなくなる。
それを知っていて、寅が女性を諦める度妹さくらは泣いているのかもしれない。そんな突拍子もないことが浮かんだ。
寅さんの失恋の一般的な解釈は、フーテンの自分が女性を幸せにはできないという寅のピュアさで、結局恋愛を全うできないのは、フーテンの生活が捨てられないフーテンでしか生きられないという悲しいコンプレックスなのだろう。
けれど、もし寅のコンプレックスがアザもちであったとしても、それはそれですごく納得できるのである。
我が家の眠る寅次郎
スヤスヤ・・・・・ ブサイク・・・・

12/17/2006 
先日、私は年月と共に要領よしになったと言ったが、これはもともとの性格にもよるが多分にアザのせいでもあるように思う。ユニークフェイス日誌を読んでいたらこんな記事があった。
http://d.hatena.ne.jp/uniqueface/20061122/p4 (是非アクセスしてみてください)
石井政之さんが中学校での講演で
質問者(生徒の母親)「なぜあなたはそんなに強いのか?」
石井政之「生きのこるために強くなっただけです」
質問者の決め付けるような言い方に少し引っかかるものがあるが、確かに石井さんは強く見える。一度だけ「車座バトルトーク」というものでトークされる石井さんを拝見したが、その言葉は刃のように鋭くあやふやなところがない。私とは真逆だと感じた。
私は断言ができない。何か言いたい時は、「**じゃないでしょうかね」「**かもしれませんね」という言い方になる。直ちに否定された場合、逃げ道がある言い方である。
人の歩いた跡をはみ出さずに歩きたい、目立たず生きていきたいと思うのは、人知れずアザをカバーメイクで隠して生きている副産物かもしれない。
もし素顔のままで暮らしていたら、其処此処から感じる好奇の視線と闘うために、要領よしではなくはっきりとした生き様になったかもしれない。
夫は些末なことにクヨクヨする私に「もっと強くなれ」というが、私はもともとそんなに弱い性質ではない。土壇場になると底力がでて、若い頃引ったくりを追いかけて追い詰めたり、後ろから頭を叩かれインネンをつけてきたその筋の人を言い負かしたこともある(勿論私が男性だったらタダでは済まなかったと思うけど)。後から怖くて身体がガタガタ震えたが、叩かれた瞬間身体の中で何かがプチっと切れた。私ってこういう一面があるんだと自分でびっくりした。
まあそんなことは兎も角としても、アザを隠さず生きていたら今の私とは違った人格があったに違いない。では、もしアザがなかったらならばどんな性格だったろうと思いは馳せる。
はっきりとした物言いをしない私は、キツイ物言いをする人が苦手だ。ホントに怒ったり悲しかったりした時密かに心に沈める私は、ストレートに感情を顔に出す人が更に苦手だ。
感じていることと表情が違う人の方が不気味だが、それでも私はすぐに感情が顔に出る人が怖い。表面だけ穏やかに波風立てず、お互い騙し騙し穏やかに暮らしていきたい。
カバーメイクでの暮らしは、騙し騙しの生き様のようである。

ユニークフェイス日誌から目が離せない。「顔面漂流記」も「顔面バカ一代」も何度も読んだが、ユニークフェイス日誌の顔という迷路を読んだら何でかわからないけど涙がでた。
http://d.hatena.ne.jp/uniqueface/?of=25
11/25/2006 
もう11月と思っていたら、師走が近くなってしまった。一年の何とはやいこと。カバーメイクが面倒だとかブータレながら、また一年が過ぎようとしている。
掲示板に今までアザのことでは死にたいと思ったことはないと書いたが、カバーメイクをしないで暮らしていたら死にたいと思ったかもしれない。だからやっぱりカバーメイクは命綱だ。
けれど、カバーメイクをしながらジタバタ悶悶と暮らす日々、本当はとても幸せであることを私は知っている。そしてこの幸せは永遠ではなく、いつか終わりの日がくることをとても恐れている。
先月、姉から
今日は、サンドイッチと熱いコーヒーを持って散歩に行きました。
タロウはドックフードとビーフジャーキー。
汗は出ますが、風がさわやかで、気持ちよかった。
幸せだなあって思います。
この幸せがなるべく長く続きますように。
というメールがあった。
何事もない平凡な毎日ほど貴重で幸せなものはないと、姉も私も知っている。
メールを読んで、ささやかな日々を幸せと言う姉が健気で涙が出てしまった。幸せと言うまでには、たくさんの悲しみを乗り越え胸にしまったのだろう。
こんなメールもあった。
小さい(何が小さいのかはっきりしないが、
とにかく私にとっては小さい)**さんが
私のためにチョコマカ動いて、一生懸命に
やってくれているのを見ると、ジーンときて
胸が一杯になります。
子どもの頃、身体も気も弱かった私は、姉にとって未だに「小さい」イメージのようだ。
みんなに心配されて守られていた「小さい私」は、おばさんになって結構要領よしになった。今では、堅気で要領がいいとはいえない姉のほうが健気で心配である。
平凡で何事もない日々のまま年を越し、何事もない穏やかな年が迎えられるといいな。
おっと、その前に年賀状の作成と大掃除をせんかい!
11/9/2006 
10月前半からひと月近く、ぐずぐずと風邪を引いている。
「言いたい放題」を更新しようとハロウィンの壁紙にしたのだが、更新できないまま11月になってしまった。
いつも頭と喉が痛い。咳き込むので身体の筋肉も痛い。耳鼻科に通っているが、夫から「早く内科に行かないと手遅れになる」と叱られている。でも、私の風邪は耳鼻科が合うのだ。
デブの私は、みんなが涼しげに仕事をしている中ひとり汗をかいている。会社から外に出ると、冷たい風が汗ばんだ身体を冷やし咳が止まらなくなる。涙を流しゲボするほど咳くと、透明なトロトロの液体が大量に出てやっと収まる。姉も母も同じ症状で、気管支や喉が弱いのは遺伝らしい。
10月、行きつけの耳鼻科が休診日だったので新しい耳鼻科に飛び込んだ。先生の声はボソボソしていて、片耳が難聴の私には聴きづらい。
やっと聞こえたのは、「扁桃腺の手術がしてあるが、取り残しがある」 OH MY GOD!
大学病院で手術した時、担当医師は明らかに新人で、ベテランの先生に教えてもらいながら切除していたっけ。なかなか切除できず、痛さのあまり先生の足に挟まれた私の膝はガタガタ振るえ、ポロポロと涙を流す私に、ベテラン先生が「もう私がやろう」と言って代わった。
新人先生が切除した左の方に取り残しがあったに違いない。チッ!
このはじめての耳鼻科は、鼻にも喉にも薬をつけてもらえず、申し訳程度の喉の吸入で終わってしまった。あとは飲み薬で治せということか・・・。
幼少期、母が熱病の類の伝染病になった。保険所に知れたら隔離されてしまうかもというような病気だったらしい。それが私にうつり、扁桃腺が腫れ喉を塞いだ。
そのせいか季節が変わるたび風邪を引き、扁桃腺の月面クレーターに似たくぼみに黄色い膿を溜めた。お米の粒がクレーターの奥に入り込み、耳かきで掘り出すと血が滲んだ米粒が現れたっけ。
片耳の難聴もあり、今まで通った耳鼻科を何気に数えてみたら、9件だった。
一件、とても懐かしい耳鼻科がある。
社会人になった23歳の頃、仕事が終わり同僚たちがワイワイと着替えをする中、私は更衣室の隅やトイレなどでひっそりと着替えていた。扁桃腺のせいか、風邪を引かなくても夕方になると微熱を持つ私は疲れていた。会社の近くに耳鼻科を探し通った。
9月に「青春のグラフィティコンサート」が行われた久屋大通公園の近くである。
杉田眼科という名古屋で有名な病院と、「ぢ」の看板を掲げる「ひさや大黒堂」のビルの裏手に、古ーいビル(もしかしたら木造だったかも)があり、おじいちゃん先生がいつも優しく迎えてくれた。
今思い返しても他の患者さんに出会った記憶がない。コトー診療所のような一室で、先生はいつも一生懸命治療をしてくれた。
鼻から食塩水のようなものを勢いよく流し喉から出す。口からゴボゴボと出る水を容器で受け止めながら、鼻と喉の通り道が洗浄されていくのを感じる。
喉の吸入は、カップが溢れるくらいに薬が入れられ、顎が疲れるくらい(15分)吸入した。大げさではなくて、この処置は本当に効いた。1時間半をかけて自宅に着く頃、薬が沁みてヒリヒリしていた患部がぼんやりとしてくる。翌朝にはいつもの慢性の痛みがとても楽になっていた。
このおじいちゃん先生の耳鼻科は、会社の退職と同時に通院できなくなるのだが、思い出すと何だか心がほのぼのとする。
社会人になった後は、更にアザのハンデがつきまとった。夕方には化粧崩れをおこし、涙目になった目じりの化粧がどんどんはげていく。制服の着替えに戸惑い、退社する頃にはヘトヘトだった。
同僚たちはワイワイとおしゃべりしながら地下鉄に向かったが、私はとてもその中に入る元気はなく、もうすっかり日が落ちた中、久屋大通公園を横切ってビルの谷間の古びた耳鼻科を目指した。
冬のひんやりとした空気と耳鼻科の仄かな温かい灯りを思い出す。
ああ、懐かしいなあ。
もうあれから20年以上が過ぎ、病院はないかもしれない。おじいちゃん先生もご存命かどうかあやしい。
年に数回、姉と母と名古屋市内探検をする。昨年は、母が若かりし頃の懐かしい人と場所を尋ねた。私や姉が通っていた大学にも訪れたりする。18歳から38歳まで通った名古屋市は、思い出がいっぱいである。
それでももう懐かしい名古屋は行きつくした感じがしたが、無性にあの耳鼻科を訪ねてみたくなった。
母も姉も二つ返事で賛同してくれることだろう。