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| 3/12 2004 |
=私が素顔で出会った人たち A= 「素顔で出会った人たち@」の入院から数年後、また開腹手術のため入院となる。ここでの出会いは、私よりひとまわりほど年上の女性(Fさん)であった。あまりに地元の病院なので、誰か知っている人に会うのを避ける為個室を希望した。けれど、個室が空かなかったため、手術前後の数日、Fさんとふたり部屋になる。年が違うということもあり、最初からあまり印象がなかったのだが、今考えると空気のように違和感のない人だった。同室の時に少しは言葉を交わしたのだろうが、特に仲良くなったというわけでもなかった。なのに驚いたことに、私が個室になってからも時々思い出したように訪ねてきては、雑誌などをもう読まないからといって置いていくのである。記憶しているのは、新聞配達のバイトをしていたこと、配達の後おやつを食べ過ぎるせいか糖尿病の疑いがあり、退院が延びるかもしれないなどということを、ゆったりのんびりと話して、「ははは」と笑っていた。面白い人だなあ・・と思った。 Fさんが先に退院をした。Fさんも大柄な人だったが、迎えにきた御主人と息子さんもクマのプーさんのようで、良い人柄がにじみ出ていた。そして又驚いたのは、電話番号を求められるままに交換したのだが、その後2度ほど「具合はどーおー?」と電話を掛けてきてくれたのである。別に話が弾むわけではないのだが、2言3言会話をすると「じゃあまたね」といって終わる。その頃の私は、迷惑などとは思わなかったが、年が近いわけでもなく何かに意気投合したわけでもないのに、電話をくれるということに少し戸惑っていた。自分からは電話をすることもなく、やがてFさんからも連絡がなくなり、アドレスもなくしてしまった。 当時は、フルに仕事を持ち、まわりに心配事が多々あり、これから挑戦する新しい治療のことなどでいっぱいいっぱいだった。毎日がいろいろなことに流され、Fさんの事はどんどんと忘却していった。 現在、夫と穏やかに生きていくことを決めて治療を止め、パート勤務になり時間にも余裕ができ、少し穏やかな毎日を過ごせるようになった。そして、Fさんのことを思い出すようになった。 今なら、自分のことを気にかけて(どうしてだかわからないけど?)時々電話をくれるFさんと、時間があればお茶などをしたいと、とても勝手だが切に思う。思い起こせば、同室で初めて会った時も、Fさんは見事な「奇跡の人」だった。私は不義理で、いつも人に感謝する時は、ずーーっと後になってからなのだ。ずっと後になってからしか人のありがたみに気づけない。アドレスもなくしてしまったし、当時Fさんの好意に無頓着だった私は、顔もほとんど忘れてしまって、地元のどこかですれ違ってもFさんと気づけないだろう。 素顔からの出会いの、貴重な大切な人をなくしてしまった。 |
| 3/2 2004 |
オウム真理教元代表麻原こと松本智津夫の死刑判決特別番組を見て、どんな思考と精神を持つとこんな人格の人間ができるのだろうか、と考えてしまった。考えているうちにグルグルと回って、「ラストサムライ」のアザを持つ悪役に思いがいく。ナナさんが「コミュニティでも同じ議題、アザが悪のシンボルと示す映画へのやりきれない思いを話されていました。」と掲示板に書かれていたが、万国共通ほんとうにやりきれないという表現そのものだ。 映画といえば、「顔面漂流記」に書かれている、石井氏とアザを持つ悪役が登場する映画との出合いのシチュエーションには、絶句してしまう。(詳しくは「顔面漂流記」を読んでください) 石井氏が「人生はなんて皮肉にみちているのだろう」と、少し冷めた言い方をするしかないくらい、理不尽、不条理という言葉が私の頭の中をグルグルと回った。同じく「顔面漂流記」の中で、顔に障害のある者と犯罪の関係について、石井氏は疑問を呈している。私もハタと思うのだが、こんなに悪役にされるアザ持ちさんだが、実際に犯罪を起こしたアザ持ちさんは見たことがない。少なくとも私は知らない。アザ持ちさんや見た目に障害を持つ人の多くは、ひっそりとなるべくは目立たぬよう、堅実に一生懸命生きている、というのがほんとうのところではないか。良い意味で社会の表舞台にでたパイオニアが、NPOユニークフェイスの代表でもあり、ジャーナリスト・ライターの石井政之氏であろう。 そうそう、もう一人著名人を忘れていた。ロシアのペレストロイカの父ゴルバチョフ元大統領だ。極悪非道のアザ持ちさんなんてやっぱり知らない。 だいたい、生まれもっての強面(コワモテ)さんに悪い人はいないという。凶悪犯罪を犯す人は、その内面から人相が醜く卑しくなるのだろう。映画監督は、アザ持ちさんを悪役に仕立てるという発想そのものが、自らの心の貧しさ、卑しさだということにいい加減気づいてもらいたい。まあ100歩譲って、120%娯楽目的の3流4流映画なら仕方がないとしても、何かしらの感動やメッセージを社会に送る目的の映画なら、少しは考えなさいよと、いつになく過激に私は言いたい。 |
| 2/26 2004 |
掲示板にアザを持つ子の母親のメッセージをいただく。自分のHPを持ってはじめて自分と同じようにアザを持つ人との繋がりができたが、お母さんとの関わりもはじめてである。自分ではなく、愛するわが子がアザを持つというのは、どういう気持ちだろうか。「顔面漂流記」の中に「代われるものならね・・」という母親の一節があり、私の涙腺をボロボロにしたのだが、子供の悲しみを前に何もしてあげられないというのは、本人以上に辛いことかもしれない。 母は私をとてつもない難産で出産した直後、祖母(母の母)から「もう子供は生むなよ・・」といわれ、どういうことかわからないまま赤ちゃんを見て、祖母の言った言葉の意味がわかったそうだ。 頭にも広範囲のアザがある上、生まれたときは産毛もほとんどない状態だった私は、どんなにか母を驚かせ悲しませたであろうと思う。以後母と私の治療記が始まる。ラジウム治療というのをご存知の方はいないだろうか。もう40年近くも昔の治療法だが、後に放射能の一種として禁止になった。 母は一日にひとつと決められているラヂウムのシールを、看護師さんの目を盗み、ふたつアザに貼りつけていた。なんとか治るものならばという母心からであるが、後に禁止になったことを知り、後遺症の心配を私が大人になってからもしていた。 ドライアイス治療の効果もなく、病院帰り幼い私を負ぶった母は、このまま一緒に川に飛び込んで死んでしまおうと思ったことがあったそうだ。私は病気や怪我も多く、母は一時も気が休まらない毎日だったという。 3歳くらいに交通事故にあった。町医者で「何も問題なし」と言われたが、青くなりガタガタ震えている状態に、何でもないわけがないと市民病院へ。ここでは「わからない」と言われ、大学病院でやっと頭蓋骨を骨折していることがわかった。母を激怒させたのは町医者の言葉で、私を見て「もう前からこんな(容姿)ではないか」と言ったそうだ。母はさぞかし無念であったろう。 母の言葉で覚えていることがある。「誰かに聞かれたら『生まれつき』といいなさい。」これは、「火傷をしたといいなさい。」と変わることもあった。もうひとつは、「大きくなってもお母さんのことを恨まんといてな。」と悲しそうに言われた記憶である。当時は何のことかはっきりはわからなかったが、どちらもアザのことを言っていたのであろう。幼少期はいつも母親と一緒だった。小学校に上がるまで私を帯紐で背負っていた母は、近所の人に「もういい加減そんな大きい子おろしたら」といわれたそうだ。私を背中に負ぶっていると母は安心だったのだろう。 おかげで私は依存心の強い、全く自立できない大人になってしまった。けれど、母は今では自分の役目を私の夫に託し、私はいまだ半人前ながらも、年老いた母を逆に心配する立場になった。 以前母に「**さん(私の夫)はほんとうに**(私)を愛しそうな目で見るね。お母さんなんかお父さんにそんな風に見てもらったことないよ。」と、うれしそうに少し羨ましげに言われたことがあった。 母は私を愛しんでくれる夫に、自分の役目をバトンタッチし荷をおろしたようである。 私が素顔で出会った人たちAは次回に。 |
| 2/21 2004 |
=私が素顔で出会った人たち @= 扁桃腺切除の入院以降、30歳前後にレーザー治療のため数回入院をした。けれど、一泊の入院 であり、しかも全身麻酔の影響でボーッとしたまま、顔面がガーゼだらけの状態では、人と繋がりを 持つことは不可能だった。(持つ気もなかったけれど。)その後結婚して数年目に開腹手術をする ことになる。入院の日、6人部屋の自分のベッドのカーテンを閉めていた私は、看護師さんに叱ら れる。就寝以外は、看護師が患者をすぐに一瞥できるよう、カーテンを開け放しておかなければい けないということで。最初はギョッとしたが、自分にとってはこの荒行が幸いし、先に入院していた 同年代の2人と仲良くなる。(他は年配の方でその方たちとも仲良くなったが。) お互いをYちゃんSちゃんなどと呼び合い、同じ治療の悩みや仕事を持つ主婦ということなど、境遇 が似ていることもあり、すぐに意気投合をする。 全くの素顔での人との繋がりは、高校生以来だった。 「顔面漂流記」の中で著者石井氏は、「化粧をした顔は自分の顔ではない。この顔で見ず知ら ずの人と出会い、友人になったとして、それが本当の友情といえるのだろうか。」 という疑問を持ったことを記されている。 外では見知らぬ人に不意に冷水を浴びせられるような事に怯える世界だったが、教室の中では 友人と笑い合い語り合い、アザを隠すという秘密を持つことのない、一点の曇りのない気持ちで の友人との繋がり。 高校時代と同じような繋がりが、病室の中でも持てたのである。 勿論、病室の中でもアザのある右側には絶えず意識が働いたが、それはもう仕方のないことで、 それよりも隠し事のない素顔の状態で人間関係を構築しているということは、自分にとって高校生 以来の素晴らしい感覚であった。 心無い医師の言葉に一緒に怒ったり、お互いの家庭のこと身体のことなど深い話になる中、私は 自分のアザについて触れた。「エッどこにあるの?わからないよ。」と言って、一生懸命アザに視線 がいかないように私の顔を眺めるSさんに、もう一人のYさんも私も困ってしまったが、ちょっとずれ てる気はするが、これがSさんの気遣いだったのだろう。そのSさんが一番最初に退院し、術後の 私をYさんは姉(実際は年下)のようにあれこれと面倒をみてくれた。見舞いにきていた母が感心 するくらいにである。術後はなるべく動かなければいけないというのに、寝てばかりいた私は(実は 強い薬で肝臓を悪くしていた為だったことが検査でわかり退院が伸びたのだが)、先生に毎日屋上 に散歩に行くことを義務づけられ、それにもYさんは付き合ってくれた。夜もカーテンの隙間から、 ヒソヒソクスクス話をしている私たちは、看護師さんに姉妹のようだねと言って笑われた。 その後Yさんも退院をする。SさんともYさんともアドレス交換をしなかった。後の通院でまた会える かも、ということもあったのだが、家庭を持ち仕事を持ち今後も向き合っていかなければならない 治療があり、忙しない日常が待っている中、この入院はお互いに「旅人」というような気持ちがあっ たのかもしれない。優しい優しい旅人との出会いであった。 SさんにYさん、今頃どうしているかなー。 PS.これを書き終わった後毛布を取り込みながら、ハッと思い出した。そういえば退院後の通院で、 一度だけYさんに待合室で出会った。完璧なカバーマークとメイクをした私に、Yさんは少し戸 惑っている様子だった。私も何だか気まずくて、二人で居心地の悪い思いをした記憶がある。 |
| 2/11 2004 |
=私が素顔で出会った人たち まえがき= カバーマークを始めて以来、素顔で外出をしたことはない。カバーマークによって人の視線を避けることを知り、もう二度と素顔で外出するという勇気が、1ミクロンもなくなっていた。そして、メイク指導の方がおっしゃっていたように、カバーマークによって新たな苦悩が始まる。 夢を見る。夢の中でも私は眠っている。突然部屋のドアが開けられ誰かが入ってくる。化粧をしていない私は、身も凍るような気持ちになり、そこでいつもハッと目が覚めた。この夢は、カバーマークを始めた当初数年くらいは頻繁に見ていた。(今でも年に1.2回くらいは見るが、そういえばこのHPを始めるようになってからは見ていないかな。)顔の右半分、耳、首と広範囲に厚い化粧を塗っている顔は、ビジュアル的には自分が自分でないという意識。そして、そこまでしてアザを隠しているということを知られるのは、アザを持っているのと同じくらい恥ずかしかった。(けれど、カバーマークをしている他の人に関しては、恥ずかしいなどと思うことはなく、むしろ愛しい思いです。) 石井政之氏著書の「顔面漂流記」の中に、血管腫を持つ女性の手記が紹介されており、その中に「アザを化粧で隠せば隠すほど『アザを隠している』という意識にふりまわされるようになってしまった」という一節がある。私のこの思いは、カバーマークを経験した人なら、多かれ少なかれ誰もが感じることなのだろう。手記の女性は、その後ものすごく勇気ある道を進まれるのだが、ひたすらアザを隠して生きるという道を歩んだ私に、スッピンでの外出はなかった。唯一、素顔でなければいけない場所があり、そこは病院だった。 20代から現在まで、数回の入院を経験した。最初の入院は扁桃腺の切除手術だった。喉をほとんど塞ぐほどの扁桃腺の腫れがあり、よく熱を出していた私は、先生の「ウーン切除したほうがいいかなあ」という言葉に、渡りに舟で切除手術を決行した。何が渡りに舟かというと、その頃、会社の宿泊を伴う新春研修の予定に悩んでいたからだった。お正月休みも利用して、研修日に照準を当て手術日を入れた。研修さえなければ、扁桃腺の切除なんて絶対やらなかった。子供の頃、近所の田舎耳鼻科で見た、血だらけで泣き叫ぶ子供の記憶がすっかり私を怯えさせていたし、入院や手術は、スッピンでいなければいけないということが、その頃の私にはほとんど耐え難いことだったから。 にもかかわらず、研修で職を失うよりは、と決意したのである。姉に指摘された「何かをしたいというより、何かから逃れたい時に異常に頑張れる」という私の本領発揮である。 入院は個室を希望した。看護師さんに「大部屋の方が楽しいよ」と言われたが個室を選び、3日間一人病室に篭ったまま退院をむかえた。出会いも何もない入院の始まりであった。 |
| 2/4 2004 |
1月中旬よりPCに不具合がおき、半月以上もジタバタしてしまいました。PCを初期化したため、いく つかのデータを失い、結局新しいPCを購入しました。 何より、HPを更新できないことやアクセスできないことがとても苛立たしく、昨年7月に始めたHPが、 皆さんの支えによって、私の中でとても大きな拠所になっている事を実感した半月でもありました。 今後もマイペースで運営していきますので、よろしくお願いします。 PS.早速アクセスした「掲示板」でみかんさんの書込みを読んで、胸が熱くなりました。 |
| 1/11 2004 |
潜在的にはずっと恐れていたことなのだが、気付いたらやっぱり只のオバサンになっていた。私ぐら いの年齢なら、まだ子供の世話に忙しい毎日だろうが、それもない。シングルでバリバリ働くキャリア ウーマンや、家事をし子育てをし、更にしっかりと社会で働いている女性には、恐れ入って頭が上が らない。唯一社会と繋がる自己を確認できるのは、友人のおかげで1年半ぐらい確保されている仕 事と、このHPのみである。どうしてこうなってしまったのだろう。 幼少期は、母にありとあらゆる習い事に行かされた。そろばん、習字、勉強塾といった一般的なもの は勿論、オルガン、ピアノ、絵画、茶道華道・・・。しかし1年ともたなかった。ピアノに至ってはたった 1日。母は裕福でもない中、ハンデのある私の将来を考え一生懸命だったのだと思うが、学校も嫌い だったのに習い事なんか行くわけがない。結局母はすべてを諦め、小学校3年生ぐらい以降、私と塾 や習い事は無縁となった。学校では、先生の話を聞きながら空想の世界に入っていく。読書は大好 きだったが、勉強はしなかった。極まれに実力テストでよい点を取ることがあり、「この子はやればで きる」と先生から言われたと喜んでいる母に、「出来る出来ないは、誰でもやるかやらないかという問 題」と姉がバッサリ切り捨てた。中学生のある日、あんまり勉強をしない私は、母と姉に延々と説教 を受けていた。「人間は教養が一番大切なんだから」という母の言葉に、昨晩「ミュージックステーショ ン」で井上順が言っていた駄洒落が浮かんだので言ってみた。「みなさん教養がありますね。いつか ら?キョウ(今日)ヨー」。母と姉は「ダメだわこの子は」と言って笑ってしまった。受けたのが嬉しくて 今でも覚えている。 そんな生活だったが、高校3年の一年間だけは、母が徹夜の私に「もう寝なさい」というくらい、一人 で勉強をした。理由は、社会に出るのが怖くて、大学入学を目指したから。最近姉に指摘されたのだ が、私が頑張る時は、何かをしたいということからではなくて、何かから逃れたいという時だけ。姉に 鋭いところをつかれた。最も、もともと努力家ではないので、受験勉強も12月までは頑張ったが、年 を越して受験日まではまたぼーっとしていたのだが。 嗚呼、気付けば定職もないオバサンだ。40の手習いというが、是非これがしてみたい!ということに 出合いたいと思う今日この頃である。 |
| 1/6 2004 |
大掃除に飽きて買い物に出た途中、突然「ラストサムライ」を観ることになった。幕末ものは好きな ので。けれど、開始早々すぐに後悔した。何故なら、頬に赤アザを持つ男がスクリーンに映ったか らだ。「なんだろう今の人は。ただ一瞬出ただけかも。もう出ないかもしれない。」と心臓がドキドキ する私の期待を破って、その後間もなく彼は悪役ということがわかる。「もう悪役なら何でもいいか ら早く切られて死んでくれ。早くスクリーンからいなくなってくれないと気が休まらない。」と願う私に、 話も半ば前、彼は本当に切られて死んだ。映画の内容は、アメリカ人の良い役(トムクルーズ演じ るオールグレン)と悪役、日本人の良い役(渡辺謙演じる勝元)と悪役というすっごく分りやすいスト ーリーで、アザを持つ男は、日本人の悪役の「手下」なのである。悪役のボスならまだしも手下で、 しかもセリフもなく、彼の悪役の存在価値はその頬の「アザ」のみなのである。頬のアザのみ斜め の横顔がアップになる。そして最後に一言だけ捨てゼリフを吐いて、オールグレンに首を跳ね落と される。私は怒りを通り越して深い悲しみに沈んでしまった。 「顔面漂流記」に「スティグマ」という言葉がでてくる。著者の石井氏が調べられたのだが、ある特定 の肉体上の徴(しるし)を古代ギリシャでは「スティグマ」と呼び、これを持つ者は何か異常なところや 悪いところがあると暗示され、古代から忌み嫌われ差別を余儀なくされてきたという。 スティグマには三つの種類があるとアメリカの社会学者が定義したそうだが(詳しくは「顔面漂流記」 を読んで下さい。) その三つの中のひとつ「身体的スティグマ」にアザが属するそうだ。そのスティグマの概念は、悲しい ことに古今東西、日本にも存在し、「今昔物語」にも同じ意味がこめられた話があるそうだ(これも 「顔面漂流記」に詳しい)。こんな大昔からの概念が、いまだ脈々と続いている。 昔同じように映画で嫌な思いをした事があった。確か沢田研二主演の「魔界転生」だったと思うが、 もしかしたら記憶違いかもしれない。やっぱり悪役のアザを持つ男が登場し、映画が終わるまで、 私の心臓は爆発しそうだった。映画が終わって友達とカフェに入ったのだが、動揺のあまり席に座 った際、前のお客のまだ片付いていないグラスの水に口をつけてしまい、友達とウエイターの「大 丈夫?」「大丈夫ですか?」という声にハッと我に返った。キツかったのは、大学1年の時はカバー マークをしていなかったので、一緒に映画を観た友達が私のアザを知っていたということ。たぶん 私の動揺の理由も彼女は気付いていただろう。「ラストサムライ」は夫と一緒に観たので、「夫が私 の事を気にしているだろうな」ということを多少は気にしながらも、夫婦なのでそれほどは気になら ず、純粋にアザを持つ男の人の扱いに心を奪われた。 昔は何があっても仕方がないと諦めていた。「魔界転生」の時も、「のこのこと何も調べずに映画を 観に行った自分が愚かだったのだ。これからはこんなところにも傷つく落とし穴があるのを肝に銘じ て気をつけよう。」と思っていた。世の中には理不尽なことが山ほどあり、自分のことも仕方がない、 しょうがないと決めていたのだ。最も何か言いたくてもどこに言っていいか分らなかったし。 けれど「NPOユニークフェイス」を創立された石井政之氏の活動を知り、著書に出合って、いやなこ と不快に感じることはちゃんとメッセージしていいんだ、と思えるようになった。メッセージしなければ 分らないことがあるから。 石井氏の著書に、火傷の障害を持つ人について書かれているものがあり、それを読んでハッと思っ た。エルム街の悪夢という映画があるが、間違いなく火傷を連想させ、殺人鬼に仕立て上げられた フレディの存在は、火傷の障害に苦しむ人々にとってどうなのだろうか、と。 以前「フレディVSジョンソン」の映画予告をTVで見た時、悪趣味と不快に思いながらも、火傷の障 害を持つ人の心にまでは思いがいたらなかった。人は自分にはない痛みには、なかなか気付けな いものなのだろう。 「ラストサムライ」も近い日にTVで放映されるだろう。全国放送になって、又アザのイメージが損なわ れるのではないかと心配だ。けれど、映画を観て、アザのある人の痛みにまで思いを馳せてくれる 人はめったにいないと思うが、だからといってアザを持つ人が映画のように悪人だと決め付ける人も いないだろう。小泉首相が映画鑑賞をしてワケの分らない感想を言っていたそうだが、あの映画は 娯楽の域を越えない。私は歴史の中でも幕末が大好きで、司馬遼太郎氏や柴田錬三郎氏などの 書籍をたくさん読んだが、武士や侍はもっと崇高な志半ばで死んでいったのだ。「ラストサムライ」は やっぱりカタカナの「サムライ」でしかないと、おすぎさん(おすぎとピーコの)も批評してくれると思う。 |
| 1/6 2004 |
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年もマイペースでHPを運営していきたいと思 っています。よろしくおねがいいたします。 新年から掲示板に訪れてくださった方々の心が温かくなる書き込みを読んで、HOTな気持ちです。 なので映画「ラストサムライ」のことにはもう触れないでいたい気分なのですが、やっぱり向き合う事 は大切だし、みなさんにも聞いていただきたいので上記に。 |
| 12/30 2003 |
2003年も暮れようとしています。今年は自分のHPを持つことを思い立ち、HPを通してたくさんの方 と出会うことができました。また、私のバイブルとなった石井政之さんの著書に出合い、自分で年号 がつけられるなら、「〇〇元年」としたいような年となりました。来年はどんな年になるのでしょうか。 気持ちが行き詰まった時は、母の言葉を思い出します。「人生一度きり。二度はないんだからね。」 たった一度きりの人生。来年も明日も今この瞬間もたった一度きり。そう思うと何だか気持ちが解き 放たれて楽になるような気がします。今この世界の苦しみも悲しみも、100年後には人々と共に総入 れ替えです。人は長いようで短かい人生をジタバタしながら終えるのでしょうかね。ジタバタの最たる ものは私で、出来れば泰然と日々を過ごしたいと思いながらも、クヨクヨジタバタの毎日です。観念的 になってしまいました。まだ家の中が片付かないという現実と向かい合って大掃除を続けます。 カメオンのHPを訪ねてくださったみなさん。ほんとうにありがとうございました。よいお年をお迎えくだ さい。 PS.師走の慌しい中、突然思い立って「ラストサムライ」を観に行きました。何だかイヤーな気分が。。。来年の「カメオンの言 いたい放題」で理由を。 |
| 12/23 2003 |
11月にまとまった休暇がとれたため、韓国を旅行した。旅といっても初めての国なので、完全ガイド 添乗員さん付きのツアーを選び、釜山からソウルを斜めに縦断した。感想は、韓国はパワフルで熱 かった。イメージでいうと、大阪が彼方此方にあるといった感じだろうか。一番印象に残ったのはガイ ドさんである。日本にも何回か来た事があると言うHさんは、博識で、お話の中に時々哲学を感じる のである。韓半島(朝鮮半島とはいわない)の歴史や、日本との関わりの史実を丁寧に説明してくれ るのだが、悲しいことにツアー客はバスの揺れに合わせてウトウトしてしまうのである。Hさんは「眠い ですか?Hさん(自分)の話つまらないですか?」と言って説明を中断される度、私はガッカリである。 天皇陛下の「古よりの縁」発言についても、「韓国ではニュースになりましたが、日本ではどうです か?」とHさんは尋ねるのだが、やっぱりみんな眠そうなのである。 歴史民俗資料館をいくつか見学したのだが、周りが公園になっていて、韓国のお年寄りの憩いの場 にもなっているそうである。Hさんの説明によると、韓国では年金制度が無いため、老人はこういう所 で日がな一日を過ごし、お小遣いは子供から貰うのだそうだ。ただし、儒教の国韓国では、老人や親 を敬う思想が強いため、子供は押しなべて親孝行のようである。Hさんは、日本の年金制度を誉め、 儒教の国韓国でも、最近は子供が親を殺すという事件があったということで、「日本ではそんな犯罪 はないでしょう」と嘆いていた。私たちツアー客は、日本の年金制度は崩壊し始め、親殺しなんか、 もう十年以上も前から(金属バット事件って何年前だったかな)あり、今では日常茶飯事なんていう ことはとても言えなかった。 ああ、また韓国に行きたい。今度はたっぷりの自由行動で旅したいものだ。韓国は食べ物も美味しく て、今日もチゲ鍋をお土産に買った韓国箸で食しながら、韓国旅行を反芻する私である。 |
| 12/13 2003 |
カバーマークの買い置きが少なくなったのでネット注文をした。以前は、取扱い店の美容院まで 出掛けないといけなかったのに、便利になったものだ。届いた品物を見てちょっと焦った。容器が 今までのベージュ色からホワイトに変わっていたので、注文を間違えたと思ったからだ。容器変更 の案内が入っていて、そういえばネットにもそんなような事が載ってたっけ、と一安心。 カバーマークは、以前はオリリー化粧品といって、アメリカのリディア・オリリーという人が自分の為 に開発したものである。オリリー婦人については、石井政之著書の「顔面漂流記」に詳しい。 ちょっと話は逸れるが、姉に貸していた「顔面漂流記」が一ケ月ぶりに返ってきた。もう購入した当 初のように頁をめくっては涙するようなことはないが、やっぱり少し時間のある時は本を開く。また 新たな思いや発見があり、「顔面漂流記」は私のバイブルになった。 閑話休題 初めてカバーマークを習い購入した際、化粧品と一緒にパンフレットのような物がつい ていた。今でもはっきりと覚えている。リディア・オリリーの少しの経歴とベール(アメリカの葬儀など で婦人が顔を半分ぐらい黒いレースで覆うようなもの)を掛けたオリリー婦人の写真が載っていた。 他には、カバーマークの化粧方法のモデルに初老の婦人と、カバーマーク使用前、使用後の5歳 くらいの女の子の写真が載っていた(どちらも白人)。女の子は、使用前は硬い表情の素顔で、 使用後はニッコリと微笑むという、今でいうなら美容整形前、後の写真といった、いかにもという 写真だった。 そのパンフを見て複雑な思いはしたが、アザのことについては今までずっと独りぼっちだった中で、 生まれて初めて同じものを共有した人達にパンフの中で出会えたのである。そのパンフは大切に ずっとしまって置いたはずだったが、20数年という歳月の中、どこかへ無くしてしまった。 カバーマークを注文した際、それ専用のクレンジングが廃番になった事を知った。(メイク落しは、 オルビス化粧品のものがとても使い勝手が良い。)廃番にして他の新しい製品が開発されるのか な、と思ったが、オリリー婦人が開発(クレンジンは違うかも)して以来、ずっとあの使い心地の悪い クレンジングで甘んじてきた会社は、オリリー婦人の志を継いでいないと思うのだがどうだろう。 「顔面漂流記」を開く。1997年3月10日夕方、石井氏はニューヨークマンハッタン島のオリリーの オフィスがあったという交差点に立つ。チャイナタウンで買い求めた線香に火をつけ、彼は1950年 に生涯を閉じたオリリー婦人に思いを馳せる。 =以下本文よりそのまま= オリリーは世界ではじめて企業家として、そして同じ境遇にある者として、顔に『障害』の ある者に尽くしたパイオニアだった。そして私の人生の歯車を変えた人物だった。 その偉大な業績を知る人は少なくなっている。没後40年という時間は短くない。 中略 『オリリーさん、あなたにひかれてここまで来ましたよ』 私は火を消した。 |
| 12/7 2003 |
石井政之さん(顔面漂流記著者)のHP「石猿日記」からのものですが、アクセスしてみてください。 |
| 12/7 2003 |
ワケあって天童よしみのコンサートを観た。下積み時代がある苦労人らしく、歌以外の気配りも心地 よく、2時間全く飽きないコンサートだった。(あのまん丸のカラダで踊るんだよ)何より、天性の歌姫 なのだろう。 高校の先生の話を今でも思い出す。『「しあわせ」という書き方は「幸せ」の他に「仕合せ」とも書く。 「仕事が合う」、これは究極の仕合せなのだよ。』 仕事とは、最終的に社会や人々の幸せに繋がることになるのだが、十数年前、若かった私は、NH K特集の番組で見た、人を殺傷する物を扱うことを生業としている武器商人という人達がいることに 驚いた。 姉が少し前、拉致被害者の曽我ひとみさんが、歌手森昌子のファンという話題で、「どんなにか辛い 日々の中で、歌は曽我さんの支えでもあったんだろうね。歌ってすごいね」と言っていた。 衣食住から離れている歌は、無くても人は生きていけるだろう。けれど、いつの時代も歌は人を癒す のである。天童よしみは素晴らしい「仕合せ」な歌姫だと思った。 突然話は変わるが、外交官がイラクでテロに遭い亡くなるという痛ましい報道が連日されているが、 北朝鮮の拉致事件もテロと同様といわれている。日本に暮らしていながら(海外で拉致された人も いるが)、ある日突然連れ去られた方たちの事を思うとやり切れない。彼らは、日本や日本政府にも 今まで見捨てられてきた。現在も、拉致被害者と認定さえもされないまま、もしかしたら異国の地で 命を終えている人もいるかもしれない。命という同じひとつの重さと大きさなのに。 |
| 11/29 2003 |
=私がアザを打ち明けた人達 あとがき= 少し前、姉と電話で話しこんだ際、こんな会話があった。 私:「私は思い返すと、人生の転機や曲がり角で、いつも誰かに助けられた。ほんとうに幸せなことだ と思う。」 姉:「そうやって人に感謝できるとこが偉いね。」 私:「だって、ほんとうに助けられたんだ もん。」 姉:「実際そうでも、それをありがたいと感じるのも感じないのも本人次第だから・・。」 子供の頃から、姉に誉められた事がない私は、何だか照れたが嬉しかった。 私が自分のアザを打ち明けた人の多くは、負けないくらいの自分の悩みを換わりに打ち明けてくれ た。これは偶然だろうか。もしかしたら何かしらのハンデを持つ人は、同じ心の痛みがわかる人とし て、私が長年自分を守るために培ってきた感性に映るのかもしれない。今よりも、アザについては 頑なに殻を持っていた若い頃は、滅多に人に打ち明ける事はなかったが、それでも、打ち明けた 人から、好意や思いやりではない形で他の人に知られてしまって、後悔する事があった。30歳以降 には、打ち明けた事を後悔したことはない。 けれど、最近思う。人は誰しもみんなそれぞれに、何か心に悩みや傷を持って生きている、というの が本当のところではないかと。勿論そうではない人もいるだろうし、人の痛みに全く理解や想像力が 働かず冷たい人もいるが、自分に何も悩みや痛みを持たなかったら、「人の痛みがわからない」とい うのは強引すぎると思う。(逆に、自分に痛みや悩みがある人は「人の痛みがわかる」とも決め付け られないだろう。) 私は、自分の特殊なハンデを打ち明けたおかげ?で、色んな人の痛みを知る事 になり、他の人よりもたくさん人に助けられて生きてきた。私がアザを打ち明けた人はここに載せた 限りではないが、このHPを知っている共通の友人から、本人と分る場合があるので、ここで終わり にしたいと思う。 |
| 11/22 2003 |
=私がアザを打ち明けた人達 C= 会社に女子の後輩ができた。ちょっと目を引く華やかな顔立ちの美しい子だった。会社帰りに食事 をしたり買い物をしたりとどんどん仲良くなっていくうちに、この子は見かけの華やかさとは違い、と ても不器用な生き方をしている子だと感じるようになる。後輩の場合も、いつどのようにどうして自 分のアザの事を打ち明けたのか、記憶が定かではない。だぶんどんどん仲良くなっていくうちに自 然に話す事になったのだと思う。そして、換わりに彼女の悩みを聞く事になる。後輩は、白人に多い らしいという、手のひらや足の裏から多量に汗をかくという悩みを持っていた。汗は暑い時だけでは なく緊張をした時にも出る為、パソコンを打つ手を見られたりすると、緊張のため指から滴り落ちる ほどで、日々気持ちが休まらないという。その話を聞いてアッと思い当たることがあった。後輩はい つもハンカチを数枚持ち、椅子の背に掛けて絶えず乾かしていた。そして、話をしながら私の手を 両手で握る事があり、私は恥ずかしかったが、若い子特有の「甘えた」だと思いながらも、少し何か 不思議な違和感を感じていた。自分の手が乾いている時に誰かの手を握るというのは、彼女のコン プレックスの哀しい裏返しなのだろう。 汗が多いという事が原因かどうかわからないが、彼女の恋愛は長く続かなかった。話を聞いたり、 傍で見ていても痛々しく、本当に見かけとは違い不器用な生き方をしていると思った。そんな彼女 が最後に選んだのは、知的で穏やかな雰囲気を持った男性だった。結婚が決まり彼氏の家に挨拶 に行った際、彼女が立ち上がったあとの座布団を見て、「おーおーすごいな」と言っていたと後輩は 笑った。彼氏のことで印象に残っている話がある。家族で食事をしていた時、彼は大きい口を開け すぎ顎の骨が外れてしまった。「あうあう」と苦しむ彼に、両親も兄弟も笑ってしまって何もしてくれ ない。なので、彼は一人で顎を押えながら車を運転して病院に行ったという。なんだかヒドイ話の ようだが、私は逆にほのぼのとした。彼氏の家族は、ちょっとやそっとの事では動じないおおらか な性質なのだろう。 結婚式の苦労話については二人で話が盛り?上がった。私は化粧や衣装選びに苦労し、アザの ために和装は諦めた。後輩の母親は、娘を実家から式場に、文金高島田で送り出す夢があると いう。和装での式場入場は、仲人さんに手を引かれるという困難が彼女を困らせていた。 普通では何でもないことにいちいち躓くのである。。 結婚式の写真に私のお気に入りの一枚がある。お祝いのスピーチをする私の横で、後輩と彼が 満面の笑みと温かい眼差しで見つめてくれている一枚だ。彼氏は以前に紹介されていた。後輩の 眼差しは、「私達(私は前年結婚していた)、やっと幸せになりますね」と言っていた。よくハッピー エンドのドラマに、「結婚はゴールではなくスタートだ」というが、確かにその通りだと思う。けれど、 いっぱい傷を作ってやっと安らぎの場所を見つけた彼女には、やっぱり幸せのゴールなのである。 後輩にむごい事をしたことがある。その頃、もう女子社員は10人近くに増えていた。交替で休憩室 で食事をとっていたのだが、足にビショっとした感覚があり下を見ると、ポリエステルのカーペットの ヒダの間が水溜りになっていた。「だれー、絨毯濡らしたのは」という私に、遠くの席から「ご免なさ い私が水をこぼしたんです」と言う後輩の切羽詰まった哀しげな瞳に、私はハッとした。悩みを聞い ていながらがらもこれほどまでとは思いが至らず、一番の理解者である私が一番してはいけないこ とをしてしまったのだ。2人だけの時にすぐに謝ったが、カーペットの水溜りと後輩の汗が結びつかな かった私の鈍感さは、許されようもない。 その後彼女は妊娠と同時に退職をする。家庭に入ったとはいえ、日々の生活で躓く事もあるだろう。 後輩の「私が水をこぼしたんです」と言った時の悲しげな瞳が忘れられないが、毎年幸せがぎっしり 詰まった年賀状が届けられる。 |
| 11/15 2003 |
=私がアザを打ち明けた人達 B= 特別な技能がない自分でも、なるべく長く勤める事ができる会社へと転職をしたのだが、新しい 会社もすぐに私服から制服になり、組織が大きくなるにつれ社員研修だの色々な困難が生じた。 はじめに躓いたのは社員旅行だった。入社してまもなく、成績優秀な営業所のみが行ける海外 旅行に一人分の枠ができ、運良く?私が当たった。これは強制ではないのですぐに辞退した。 つい最近まで失業の身で四苦八苦していた私に職が出来、おまけに海外旅行まで当たったこと 自体が嬉しくて、実家に遊びに来ていた姉と義兄にしつこく話したのだが、義兄は何故かそれを 聞いて難しそうな顔をしていた。後日ハッと思ったのだが、人の心に繊細な義兄は、当たった事を そんなに喜んでいる私がそれを断った理由を察知して、胸を痛めていたのだろう。 けれど、アザのために美味しい事を少しずつ諦める事には慣れていた。前の会社で、一度あった 社員旅行が東北だった。友人もでき、お小遣いも貰える、楽しくなるはずの旅行に切ないくらい行 きたかったが諦めた。会社のエレベーターで、取締役員のじいさんに「社員旅行で見かけなかった ね。旅行とはいえ会社の行事に参加しないとはどういうことか」と叱られ、凹んだ。 諦めることには慣れていたが、それより、翌年より絶対参加となった社員旅行の困難をどう乗り切 るか。本社専務宛てに、しっかりとした不参加理由を報告しなければいけないという。社員旅行で 職を無くすわけにはいかないと、私は意を決して、帰宅後に家から専務に電話をした。「個人的な 理由で」と言っただけなのだが、勤務時間外に電話をしてきたこと自体にただならぬものを感じた のか、専務は「わかりました」と言ってくれた。 3年目の社員旅行、これを記すとものすごく長くなってしまうので止めるが、大大苦心の末、ホテル の一人部屋を獲得する。一人部屋から眺めるハワイの景色は今でも忘れられない。 4年目、グレードが高いホテルの一人部屋は許されなかった。入社時から私の部署の女子社員は 私一人だった。電話でしか話した事がない営業所の女子社員と同室になるよりはと、私はかねて から仕事で信頼をしていた本社の大先輩(Aさん)にあざのことを打ち明けた。誰もが仕事で一目 を置き、スタイルが良く、ユーミン似のAさんは、二つ返事で同室を了解してくれ、「誰でも何か悩み はあるものよ。私なんかこの若さで入れ歯なんだから」と、言わなくても良い自分の事まで話してく れた。ホテルでは、全信頼をおいて打ち明けた私から目をそむけることはなく、真っ直ぐに素顔の 私を見てくれた。彼女も奇跡の人だった。 旅行中、失敗をしてしまう。部屋で先に寝ていたのだが、ドアをノックする音がしたのでAさんだと思 いカギを開けると、Aさんを訪ねて来た他の人だった(その人に顔を見られたと思うが、彼女も分別 のある大人だった)。私は寝ぼけていたのと動揺とで、その後カギにチェーンまでして寝てしまい、 Aさんはチェーンのせいで部屋に入れず、他の部屋で寝させてもらったらしい。 それでもAさんは旅行中、私のことを「ほんとにかわいいねぇ、(容姿ではない。かもしだす雰囲気が 面白いらしい)いい子だねぇ」と言ってくれ、ワイキキビーチを眺めながら語り合った。 けれど、心強い人ができたと思ったのも束の間、Aさんはその後まもなく会社への不信感から退職 する。心細い私に、Aさんからお別れの品といってスカーフが届いた。お礼の電話をすると、Aさん らしいユーモアと励ましで、「ピンチがきたら、それを被りなさい」と言って笑った。私は悲しくて何も 言えなかった。ブランドもので大判で都会のセンスにあふれたスカーフは、何度洗っても傷むことが なく、それから私のトレードマークとなった。 |
| 11/9 2003 |
=私がアザを打ち明けた人達 A= どこの会社でも日々変革があるのは常だが、私が入社した会社も2年間で大きく変化した。小さな 事では(私にとっては大きな事だが)、私服を確認して入社を決めたのに半年で制服になり、大き な事では、業務の電算化により、2年目に半数ぐらいの社員がリストラをされた。その後、私はピン チを向える。少数精鋭になった社員の制服を、簡単なユニフォーム程度のものから、しっかりとした 制服に変えるという。私は、制服ごときで退職するわけにはいかないと、苦肉の策で制服担当の 上司であった先輩に自分のアザを打ち明けた。この場面は今でも鮮明に記憶に残っている。 喫茶店で私の話を聞いていた先輩の表情が少し焦り気味になり、話が終わった後、彼女は自分に も腕に黒アザがあることを打ち明けた。先輩は最後に、「**さんの話を聞きながら、自分にもある ことを早く言わなくっちゃと、焦った」と話したのだが、実は先輩には本当に申し訳ないのだが、私は かなりの確率でそういう予想をしていた。何故なら、彼女は私服を含め半袖の制服を着たことがな かったから。半袖を着ない理由を「極端な寒がり」で通していると言っていたが、私以外の人はそう 思っていただろう。けれど同じハンデを持つ私の感覚は鋭かった。そして、付け加える事は、もし先 輩に同じハンデを感じなくても、先輩の人柄人間性であれば、私は自分のアザを打ち明けていたと いうこと。 その後、更なる人員削減による希望退職に応募し私は退職したのだが、先輩は、レーザー治療を 扱う美容クリニックを探してくれたり、姉のように親身になってくれた。紹介されたクリニックについて は、アザの範囲が狭ければ決心したと思うが、レーザー後の電車での帰宅や、暫らくの間外出が 出来なくなるということがどうしても自分の中でネックになり、結局治療を受ける事はしなかった。 診察の際、治療効果について、「完治することはなく、満足度は個人の感じ方」と聞いたが、後に レーザー治療をした際、クリニックの先生の言われたことは全く正しかった、と思った。 私の結婚式の時、先輩ともう一人の私の直属の上司だった先輩と2人で、式場に来てくれていた。 お色直しが終わって披露宴会場の扉の外に立つと、その都度先輩が迎えてくれていた。先輩は、 喫茶室にある披露宴会場の様子が映されるモニターを見ては、扉の前で私を迎えてくれていたそ うで、義兄が2人の先輩を気遣っていたそうだが、その時私は自分の緊張でいっぱいいっぱいで、 しっかりお礼も言った記憶がない始末だった。後に、わざわざ式場に足を運んでくれた先輩方の温 かさを思い出す度、胸がつまる思いがある。 先輩と語りあって記憶に残っている事はたくさんある。彼女は20代の時から、「私は長女だから結婚 しないで親の面倒をみる」と言っていた。私は当時、結婚しない理由は本当にそんなことなのだろう か、アザとは関係ないのだろうか、と思ったが、先日、HPを作ってそこに先輩のことを載せたいとい う電話をした際、年をとった母親を思いやる先輩に、やはり親を思う気持ちからなのかなあと考えた りした。数年前、父親を亡くされた先輩の悲しみを思ったが、いつも快活で明るい先輩の深い心の中 を察するには、私にはまだまだ未熟すぎた。昔先輩に勧められて読んだ書籍で、第二次世界大戦 中の731部隊とドイツのアウシュビッツ収容所について書かれた、「悪魔の飽食」と「三光」の二冊が 強く印象に残っている。 |
| 11/3 2003 |
=私がアザを打ち明けた人達 @= カバーメイクを始めて私が最初にアザのことを打ち明けたのは、会社の友人だった。そのこと は少し「profile」にふれてある。何故彼女に打ち明けたのか、どういうふうに打ち明けたのか思い 出せないのだが、彼女はおしゃれで綺麗で、見かけでは軽く打ち明けられるようなタイプではな かったのだ。たぶんアザがあって苦労していると私が打ち明けた後だと思うが、彼女は自分の 生い立ちや苦悩について話した。彼女の父親が日本出身でないことや、住んでいた家が堤防下 のトタン屋根のバラック小屋だったことなどで、子供の頃から苛められていたこと。兄弟が多くて、 高校からは家を出て一人で暮らしたことなどを。 最近のメールのやりとりで、「辛かった小学校・中学校の記憶があんまりないんです。きっと、 良い思い出がなかったし、忘れたい事ばかりの学校生活だったから、無意識に記憶にふたを してしまってるのかも。覚えてるのは、家庭訪問で汚い家を知られたくなくて、いつもアタフタして た事、兄弟の数が多すぎて、人にばれないようにとヒヤヒヤしてたり」「いまだに昔住んでいた自 分の家の、普通なら絶対入れないような汚いトイレの夢を見てはうなされる」と言っていた。 清潔で美しい彼女からは想像も出来ない事だった。 現在彼女は、たぶん10代から彼女を支えてきたのだろう、ずーっと付き合っていた由緒ある家 の男性と、親の反対などもあったようだが結婚をしている。 彼女に支えられた事はたくさんあり、今でも思いがけない気配りや思いやりを受ける事がある。 先日、自分のHPを作った事、そこにあなたのことを載せたい事などをメールした際、こんなメール をくれた。「あまり覚えてないんだけど、一つだけ**ちゃんに対して覚えてる事があります。首ま でファンデを塗っていた**ちゃんは、きっと何かの事情があるんだろう。もしかしたら、色んな人 にさんざん聞かれて嫌な思いをしてるかも知れない。だから、せめて私からは聞く事はやめよう。 そう思っていました。」 大勢の更衣室で着替える事ができず、トイレで時々着替えをしている私に、好奇心100%で執拗 に聞いてくる子がいたが、彼女は「顔面漂流記」の言葉を借りると、「好意ある無関心」で気遣って くれていた。 |